前の記事からのつづきです。

しだいに議論は白熱してきた。グレーベルも牧師も、真剣そのものだった。コンラート・グレーベルは言った。

「赤ん坊にバプテスマを施せ、と言っている箇所は、聖書にただの一ヶ所だって存在していない。

その一方で、悔い改め、信じた者に洗礼を施している例や掟はいたるところにある。それなのに、あなたはいったいどうして、赤ん坊に洗礼を施しているのですか?」

ブレンワルド牧師は答えた。「その件に関しては、われわれの君主が決定し、洗礼に関する勅令を通過させるのだ。そして私は彼らの勅令を順守していくつもりだ。」

「あなたはまったく臆病者だ!」 グレーベルは叱咤した。

「チューリッヒの権威者たちや他の人間の言葉ではなく、あくまで神があなたに命じておられること、そして神が語られていることに目をむける――、それがあなたのすべきことです!」

牧師は、ぴしゃりと打たれたような気がした。

『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』第23章より



16世紀のスイスは、宗教改革の激動期にありました。

カトリック教会の非聖書的な慣習を鋭く指摘していたツヴィングリの周りには、いつしか純情なクリスチャンの若者たちが集まってくるようになりました。冒頭のグレーベル青年もその中の一人です。

しかし改革を支持していたチューリッヒ当局が、「信者による成人洗礼」に対してNo!の姿勢を見せ、あくまで幼児洗礼を推進していく政策方針を打ち出した時、ツヴィングリは、「踏み絵」をふみ、時の政府と歩調を合わせることにしたのです。


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「えっ、でも、幼児洗礼は非聖書的な行為だって、つい先日まで、あなたは主張していたではありませんか?なぜころっと意見を変えたのですか。なぜ、政府におべっかを使うのですか?」

グレーベルやフェリクス・マンツといった二十代の青年たちは、こうしたツヴィングリの妥協を見過ごすことができず、師に問いを投げかけました。

しかしこの時点ですでに、ツヴィングリ師は、政府側につくことに決めていました。そして、一転して、「幼児洗礼支持」の意見を表明するようになったのです。


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ツヴィングリ(1484 –1531)


それまでツヴィングリを「聖書の真理をまっすぐに説き明かす神の人」と仰いでいた若者たちの失望は相当なものがありました。

それだけではありません。今や、自分たちの元師匠が、国家権力の後押しを受けた「迫害者」として、「最大の敵」として、自分たちに圧力をかけてくるようになったのです。

こうして両者は、「国教会」と「アナバプテスト」という二つの別々の道を歩んでいくようになりました。

そして結果的に、この「国教会」の手により、何百、何千というアナバプテストの老若男女が火にあぶられ、溺死させられていったのです。


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☆☆

この時期の歴史を読むと、「国教会」と「アナバプテスト」の間に、いわゆる中間層の牧師や信徒たちが多数いたことを知ります。

彼らは、グレーベルやマンツ青年たちの説教を聞き、自分でも聖書を調べた結果、「たしかに幼児洗礼は非聖書的だ」という結論に達しました。

しかしさまざまな個人的理由で、その結論を公にすることをせず、表立っては、国教会の牧師ないしは一般信徒として今まで通りの日常生活を続けていました。

☆☆

ツィング師もそういった牧師の一人でした。

しかし、ある時、一人の真面目な村人が、聖書の真理を求め、彼の牧師館にやって来たのです。その時、牧師とその方との間に交わされた会話は次のようなものでした。

マルクス・ボシャート青年が椅子に腰かけるや、隣の部屋から声が聞こえてきた。

話している人の声は真剣そのものであり、声は上ずっていた。

「先生、僕が幼児期に受けたバプテスマは、まことの洗礼だったのか否か――、今日はそのことを知るために、ここにうかがいました。」

答える牧師の声は低かったが、それでも壁のこちら側によく聞こえてきた。

「前にも言った通り、私は幼児洗礼に関し、それをあるがままの状態で諦観しなくてはならないと考えている。だから、それが正しいとも間違っているとも言えないのだ。」

「でも、先生は先日、靴工に『幼児が洗礼を受けなければならないなどと、聖書には一言も書いていない』っておっしゃったのではありませんか?」

「確かにそうだ。もし我々が、キリストが始められたように、そして初代教会でなされていたようにバプテスマを施そうと思うなら、人が成長し、自分で信仰を持てる年齢になるまで洗礼を施してはならないことになる。

『赤ん坊に洗礼を施せ』と書いている箇所は、聖書のどこにもない。

しかし一方で、『赤ん坊に洗礼を施すな』と命じている箇所が存在していないことも、また然りである。だから私は言っているのだ。――幼児洗礼は正しいとも間違っているともいえない。」

ボシャートは立ち聞きせずにはいられなかった。

二人のうち一人はしきりに部屋の中を行ったり来たりしていた。おそらく訪問者の足音だろう。この訪問者は、牧師の答えに満足していないようだった。

「聞いてください。」男が再び話し始めた。

「私は白黒はっきりした答えを得たいんです。日曜日、ヒンウィルに行き、グレーベルの説教を聴いたんですが、その日以来ずっと眠れずにいるんです。」

「私は自分の知っていることしか君に話せないよ。」

もしあなたが、私に真実を語っていないのなら、神はその血の責任をあなたに問わなくてはならなくなりますよ」と訪問者の声が再び返ってきたが、それはほとんど苦悶の叫びに近かった。

牧師は答えたが、その声にはいらだちの響きがあった。

「君の言うことは正しい。」ツィング牧師は認めた。

「もし私が神の御心を知りながらも、君にそれを告げないなら、私は本当に神の前に責任を負うことになる。

しかし、今までのところ、それがはたして正しいのか、それとも間違っているのか、私はまだ、はっきりした確信にいたっていないのだ。もし知っていたら、君に言っただろう。

それにだ、私が何もかも知っているなどと思う必要はないのだよ、君。全てを知っているような者は、この地上に一人だっていない。そして自分の無知を告白することを私は恥じていないのだ。」

「そうでありながら、あなたはご自分のことを羊の牧者だと言っておられる!」訪問者は怒気を込めて言い放った。

「狼が何匹も群れの中にいるんです。私たちを守るのはあなたの責務じゃありませんか。」

「狼がいるようには思えないが。」

「もし狼がいないのなら」とすぐに言葉が返ってきた。「それなら、グレーベルの説いている洗礼は正しいにちがいない。そして幼児洗礼は間違っているんだ。」

「何度も言っているように、私はそれが正しいのか間違っているのか分からないのだ。」牧師は言った。

「そうでありながら、あなたは依然として赤ん坊に洗礼を施し続けるつもりなんですか。」

「ああ、そうするつもりだ、もちろん。もし私が幼児洗礼をやめるなら、トラブルと反発を招くのみだ。

もし『幼児洗礼を施行すべきではない』というのが神の御心なら、神は秩序ある方法で、それを可能な状態にせしめてくださるだろう。」

隣の部屋から足音が再び聞こえてきた。ボシャートは訪問者の次なる言葉を待っていた。

「もう一つお聞かせください、先生。」

「何だね」とツィングは尋ねた。

「仮にチューリッヒの権威者たち――あなたは彼らに返答義務があります――が存在しないとしましょう。

そして返答の義務が、唯一神にだけ向けられるものとしたなら、あなたは幼児に洗礼を施しますか、それとも施しませんか。」

「その場合」と牧師は、苦もなく言った。「私は洗礼を施さないでしょう。」

「それなら、あなたは幼児洗礼が神の命じられたものではないということを知っているにもかかわらず、依然としてそれを続けるということですか。」

「現在の状況にあっては、私は続けていくつもりだ。

というのも、もし私が幼児洗礼をやめたら、自分の同僚たちの怒りを招いてしまう。そして怒りを招くようなことは避けるよう、御言葉も教えている。」

ボシャートにはもう充分だった。

彼は音を立てないようにそっーと立ち上がり、忍び足でドアの方に行き、外に滑り出た。

ドゥーンテンに来た目的は、この村にアナバプテストの教会を建て上げることに関して、この牧師がどう思っているかを知ることにあった。

『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』第24章より



もしあなたが、私に真実を語っていないのなら、神はその血の責任をあなたに問わなくてはならなくなります」と訪問者の声が再び返ってきたが、それはほとんど苦悶の叫びに近かった、、

真摯なこの求道者の苦悶の叫びは、――同性愛という21世紀の踏み絵をめぐっても――、私たちクリスチャンの良心に強く訴えかけているように思います。

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魂の永遠の行き先――真実な牧者を求めて

同性愛に関する私たちクリスチャンの応答―21世紀の「踏み絵」

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