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この何か月かの間、今晩のように大きなとりなしの力を感じたことはなかった。

愛する主の来臨を望み、また慕う。不完全なからだを全く離れ、天の万軍に加わって、賛美の歌をうたうことを切望する。

私の望みのすべては、さらにきよくなり、愛する主にさらに似ることである。

ああ、聖潔よ!幸いな楽しみと天国の働きを確実なものとするために、私の魂は、愛する救い主のきよい御姿に完全に形造られることをあえぎ求める。

―デイビッド・ブレイナード



Leonard Ravenhill,
Why Rivival Tarries, chap.10. Fire Begets Fireより 一部抜粋



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その性質上、火はさらなる火を生じさせる

そしてアンビル(接触子)からの閃光は、文字通り、町一帯を燃やす。

そう、たった一つのろうそくの火から、何万という他の人間が光を受けるのである。

デイビッド・ブレイナードの無比の祈りの生活により、蒼穹に輝く救霊の明星たちが、感化の光を受けた。

ブレイナードの伝記を読んだウィリアム・ケアリーの内に、ダイナマイトのような救霊の情熱が生じ、それはやがて彼をインドという異国の地に向かわせたのだ。


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また烈火のようなブレイナードの魂の炎は、エドワード・ペイソンの心にともしびを灯すことにもなった。

そして20歳という若さにして、彼はブレイナードに匹敵するほどの祈りの生活を始めたのである。


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また29歳で夭折した祈りの巨人ロバート・マーレー・マクチェーンも同様に、ブレイナードについての伝記を読み、磁化された。

ブレイナードが息絶えようとしていた時分、ウェスレーはまさに霊的征服の極にあった。


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そして、三大陸を揺さぶり動かした、この疲れを知らぬ伝道者ウェスレーもまた次のように言ったのだ。

「腐敗し、衰退してしまった主の働きが復興するには今、何がなされるべきだろうか?、、すべての説教者はデイビッド・ブレイナードの日記を入念に読むべきである。」

☆☆

この時代精神との闘いに私たちは直面している。

現在、この世と混交した非聖書的で歪曲されたものが「キリスト教会」の名をもって呼ばれ、こうして主の御名が汚されているのである。

真の教会は上より生まれるものである。

そしてこの教会は、祈りの内に、生き、動き、存在しているのだ。

祈り――これこそが教会の魂の切実なる望みである。

そして祈りだけが人の心を揺り動かす力を放出するのである。

魂の失われた状態に関して、教会が神につき動かされるに比例し、「洗練された」異教主義、偶像の宮、恐怖にとりつかれ罪の催眠にかかった何百万の魂が、神の元に動かされてくるのである

しかしあらゆる狡猾さの限りをつくし、悪魔は私たちから密室の祈りを奪おうとけしかけてくる。

なぜなら祈りの中において人は神とつながり、その結合の中で、サタンはその働きを妨げられ、打ち負かされるからである。

☆☆

真の祈りは時間を要するものである。

最初の内は、時がなかなか過ぎないように感じるだろう。

しかしこの聖なる習慣が自分の内で確立していくにつれ、時があっという間に流れていく。

また祈りは魂をやわらかくする。

いったい深い聖書知識があっても、私たちの心が浅いままなら、その知識が何になるだろう。

人の間で大人気を博したところで、私が神に喜ばれていないのなら、その人気がいったい何になるだろう。

肉体の衛生状態が良くても、思いや霊が汚れたもので満ちているのなら、その衛生が何になろう。

宗教的であっても、魂が世俗精神にどっぷり浸かっているのなら、その宗教性が何になるのだろう。

霊的に脆弱でありながら、なぜ肉体の強健さを誇るのか。

霊的に貧困状態にありながら、この世の富を鼻に掛けることに、いったい何の意味があるのか。

永遠の滅びの世界で無名の存在とされるなら、今、社会でもてはやされたところで、そこに何の慰めを見い出し得よう。

祈りによって、人のこういった霊的不均衡さは調整されていくのである。

☆☆

この時代の偽りの霊的潮流から救われたい、静かで天的な思いで満たされたいと願う魂は、はがねのような硬さをもって、神と親しく歩む決意をする必要がある。

霊的な富、そして神の御声を熱望する者は、おそらく大いなる孤独を経験し、「苦しみのパン」を食べることになるだろう。

また、ある者は家族や社会からの抵抗にあうかもしれない。

いずれにしても確実なのは、この人が魂の大きな葛藤を経験し、また沈黙に導かれるだろう(そのために人はあなたを誤解するかもしれない)ということである。

それだけでなく、もっとも親しい人々からも引き離される可能性さえあるのだ。

なぜなら、愛する者同士は二人だけの時を望み、そして、魂の高峰は、神との孤絶の交わりの中にあって到達されるものだからである。

ある詩人はこう言っている。


「ついて来なさい」という呼びかけを聞いた。
ただその一言だった。

こうして、もろもろの地上の楽しみは色を失っていき、
わが魂は主の後を追った。

起ち、後に従って行った。

ああ主の呼びかけを聞いて
誰が従わないでいられようか?



私は神を慕う。そして、この地上の何ものにもまさって、内なる清浄さときよさにおいて、神のみこころに一致することを熱望している。

夜、敵に打ち勝つために主と組み打ちする。今までこれほどに神のために生きることを願ったことはない。

神の奉仕に携わり、神の栄光を顕すために、私の生涯を使い尽くしたいと思う。

―ブレイナード



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