第五章
  マルクス・ボシャートの葛藤と決心


雪の夜2

マルクス・ボシャートが自室に戻り寝床についたのは、もう真夜中近くになってからであった。彼は二人の訪問客を寝室に案内し、そして彼らと話したのだった。レグラはすでに寝入っていた。

靴を脱ごうとマルクスは寝台の端っこに腰を下ろした。いろいろな思いで彼の頭は混乱していた。

――ハンス伯父と爺さんの洗礼、普通のパンとぶどう酒を使った聖餐式、伝道者たちの言葉、読み上げられた聖句など――今晩の出来事がまざまざと思い出された。

フリードリー・シュマッヘルの所を訪問した晩からまだ一週間も経っていない。あの晩、彼はヨハン・ブロトゥリーに言った。「僕は宗教的な人間じゃない」と。それは本当だった。そして今の今に至るまで、マルクスはそのことを公言してはばからなかった。

宗教的な人間じゃない。
そう、彼は決してそうではなかった。彼はその事を、人生の既成事実として、しょっちゅう公言していた。

彼が読書やチューリッヒ湖での釣りに全く興味がなかったのと全く同じように、宗教的な事柄にも興味がなかった

――ただ、それだけのことだった。それは彼の領域じゃなかったのだ。マルクス・ボシャートは農民だった。彼はあくまでゾリコン村のブドウ栽培の農夫なのであって、宗教的な人間なんかでは全然なかった。

しかし今晩、寝床に就こうとしたマルクスは、宗教に関心がないとはもはや正直言えなくなっていた。聖書がただ単に老人や牧師たちだけものではないことを今晩彼は認めざるを得なかった。肩甲骨の間に小麦一杯の袋がぐいぐい押しかぶさってくるように、一月のこの夜、マルクス・ボシャートは自分の過去の人生に対する責めを感じた。

突如としてブドウを栽培することなどたいした事に思われなくなった。恵みや赦し、そして敬虔な生き方といったものに比べたら、半分も大事なことじゃないと。

「でも僕はそんなに悪い奴じゃない」とマルクスは自分を納得させようとした。

自分より荒々しい仲間ならごまんといた。彼と同年代のヨルグ・シャドなんかはその良い例だ。シャドは道楽三昧の生活をしていた――家から逃げ出し、酔っ払いのように飲んだくれ、最後の小銭までギャンブルで使い果たしてしまうような男だった。それに比べると、自分、マルクス・ボシャートはまともな生活をしてきたではないか。

それにもかかわらず、重荷はとれなかった。たぶん僕はヨルグ・シャドのようには罪を犯していないのかもしれない。でも、自分が敬虔な生き方をしていないことをマルクスは自覚していた。

そしてマンツやブラウロックやブロトゥリーにあるものが、自分のうちにはないことを知っていた。彼は自分がのけ者のように感じ、心満たされず、押しつぶされるような圧迫感を覚えた。

マルクスは寝床に入ったが、魂のこの葛藤がなにがしかの解決をみるまでは、寝付けないだろうと思った。「そうだな」と彼は決めた。「明日の朝まで待ってみよう。そしたら僕の考えもはっきりしてくるだろうし、何が最善か分かるだろう。」

と、マルクスはこの問題を後回しにしたかったが、御霊は彼にそうさせなかった。

「マルクス、お前は偽善者や、いいかげんな者がどうなるのかということを今晩聞いたはずだ。自分自身を神にささげ、神がお前に望んでおられることをせよ――それがいかなるものであっても。

自分の罪の赦しのために祈れ。そして新生のため、新しい人生を生きる力と勇気が与えられるよう祈れ。肉の思いは死である。しかし霊の思いはいのちと平安である。」

いのちと平安。いのちと平安。これこそ僕が欲しているものだ、とマルクスはつぶやいた。でも、、、

レグラはどう思うだろう。
彼女は今晩十分メッセージを聴けただろうか。
そして洗礼を受けたいと思っただろうか。

それから義父のルディーだ。マルクスは彼のことを観察していたが、ルディーの表情からは、彼が何を考えているのか察することができなかった。

ルディーという人はそうなのだ。彼は自分の感情を隠すことができる。彼は伝道者たちに対して友好的だったが、そうは言っても、彼は元来、社交的な人間だ。新しい教会に共鳴してはいても、それに加わりたいとはまだ思っていないかもしれない。

それからマルクスは両親のこと――特に父親のこと――を思った。

父ヨーダー・ボシャートはこれを全く馬鹿げたことだと言うに決まっている。父はハインリッヒ・トーマンと同じで、新しい思想というものをことごとく軽蔑している。

息子が非合法の集会に居合わせていたということを聞いたら、父は間違いなく怒るだろう。集会が、確かにマルクスの自宅内ではあったが、実際は義父の居間で行なわれたという事実も全く言い訳にはならないだろう。

マルクスは生来、争いを好まず、和を重んじる人間であった。それは母親ゆずりであった。

ホッティンガー家の者はほとんどがその類――気質がやさしく、友好的――だった。マルクスは争いを根っから嫌っていた。だから尚さら、父を怒らせるようなことは、彼にとってゆゆしきことなのであった。

どんなにか父を怒らせることになるかと思うと、マルクスの心は痛んだ。

昨晩の集会のことで父ヨーダー・ボシャートはきっと憤慨するだろう。が、それに加えて、もしも僕が洗礼まで受けていたとしたら、その憤りたるや並大抵ものではなかっただろう。我知らず、マルクスは頭を振った。いや、僕にはできない。

しかしそれから彼は爺さんのことを思い出した。

ヤコブ・ホッティンガー爺は洗礼を受けた。爺さんは、教会がゾリコン村に建て上げられるという希望を抱いている。爺さんの影響力は今後遠くにまで及んでいくだろう。子供や孫など一族の多くが、爺さんの例に倣い、洗礼を受けるだろう。一族の者は皆爺さんを敬い慕っている。

もし爺さんが「洗礼を受けるのは正しいことだ」と考えるのなら、彼ら一同も勇気を得て、新しい教会に加わるだろうと思う。

神の教会のビジョン、新約聖書に則った教会――フェリクス・マンツやゲオルグ・ブラウロックの心を満たしているのは、他ならぬこのビジョンなのだった。そしてこれはコンラード・グレーベルのビジョンでもあるのだ。グレーベルはシャフハウゼン地方へ福音宣教に行っているとマンツは言っていた。

ウルリヒ・ツヴィングリは、再洗礼者たちがこのメッセージを国中に宣べ伝えていることを知ったらどうするだろうか。

新約聖書の教会のビジョンは燃え上がり、ツヴィングリの全企画をくつがえすことになるのだろうか。こうしてマルクスの思考はあちこちさまよったが、
――結局いつも自分自身のこと、つまり自分の前に立ちはだかっている道の分岐点に舞い戻ってくるのだった。この決断は彼自身が下さなくてはならないのだ。

彼は魂の平安と永遠のいのちが欲しかった。すさまじい渇望をもってそれを望んでいた。

しかし一方で、彼は家族内での和を保ちたかったし、ここゾリコン村にいる友人たちの間で物静かな生活を送りたくもあった。その両方を得ることはできないのだろうか。

いや、できない。ゲオルグ・ブラウロックははっきりそう言っていた。チューリッヒ参事会の法令によれば、成人に洗礼を施したり、洗礼を受けたりすることは違法行為なのだ。ブラウロックは、ハンス伯父と爺さんに洗礼を施す前にも、その事に関し念を押していた。

チューリッヒ参事会に、不従順行為を大目に見るような習慣はないことをマルクスは知っていた。

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夜は更け、マルクスの頭にはさまざまな思いが駆け巡りつづけていた。
彼は寝返りをうち、それからすやすや眠っているレグラを起こさないように、再びそっと起き上がった。

それから一時間近くもマルクスは、外の暗闇を見つめながら窓辺にたたずんでいた。

下弦の月の光で、ゾリコン村の低い通り沿いの家々の屋根がみえた。その上には何もみえなかった。

しかしそこに何があるのか彼には分かっていた――チューリッヒ湖、そしてそれがリンマット川に注いでいる低い部分の端には、チューリッヒ市自体が横たわっているのだった。

そしてかの地チューリッヒには牢獄―巨大で暗く冷たい、怖く恐ろしい、壮大な石造りの城がそびえ立っているのだった。

そこには拷問室を備えたウェレンベルグ城、そして新しいヘクセントゥルムという魔女塔があった。
マルクスは身ぶるいした。一瞬、目の前の窓に鉄格子がかけられ、監獄牢に閉じ込められている自分を想像したのだった。

参事会は、昨晩の集会についての説明を要求するだろうか。するに決まっている。壁に耳ありである。

それにハインリッヒ・トーマンがそこに居合わせた。この知らせが村役人に届いた暁には、質問やら調査やら脅しがあることだろう。公聴会も開かれるだろう。そしてそうなると監獄行きは免れないだろう。

僕は監獄行きに甘んじることができるだろうか。マルクスの内なる声は、苦悶に満ちた疑いや恐れを倍増させた。彼の肉はいやだ、と叫んでいた。しかしそれにもかかわらず、マルクスは新約聖書の言葉を忘れることができなかった。

――「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」

冷や汗がどっと吹き出してきた。この問題にけりをつけなくてはならない。

新しい疑いが彼を襲った。ブラウロックの読み上げたイエスの言葉、つまり、「手を鋤にかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない」であった。

たとえ洗礼を受けることにしたとしても、はたして来るべき迫害に敢然と立ち向かうことができるのだろうか。鋤で耕すことが困難になった時でも、手に鋤を握り続けることができるだろうか。

自分にはできないんじゃないかとマルクスは思った。僕はあまりに弱い。もしやり通すことができないのなら、いっそのこと最初からさじを投げていた方がましだ。

葛藤は激しさを増してきた。ついにマルクスは崩れるようにベッドの脇にひざまずいた。どうしたっていうんだ、祈りを忘れてしまったのか。いや、僕はそもそも祈り方を知らないのかもしれない。

「御国にいます神よ。」彼はなかばささやくように哀願した。

「僕を助けてください。あなたは僕にやるべきことを示してくださいました。でも、僕は決断できないでいるんです。あなたの御心が何であっても、、、何であっても、それをなさしめたまえ。」

長い間、マルクスはそのままひざまずいていた。

今や心の葛藤に決着をつける用意ができていた。そして彼に対する神の御心がいかなるものであれ、それに従おうとしていた。少しずつ、神に自分を明け渡すにつれ、彼の気持ちは軽くなっていった。平安を得るには何をすべきか、見え始めてきた。そう、平安といのちを得るために。

朝日

雄鶏が鳴いた。もう朝に近い。

レグラが身動きし、ベッドの上に座った。夫がベッドの脇にひざまずいて祈っているのをみると、彼女は無言で夫のそばにすべり込み、ひざまずいた。

マルクスは安堵の息を漏らした。彼らは立ち上がり、ベッドの上に腰を下ろした。それから一時間近く彼らは話した。マルクスは昨晩の戦いの一部始終を妻に語って聞かせた。

「どうして私を起こしてくれなかったの?」レグラは目に涙をためて尋ねた。
「うん、そうすべきだった、ごめん。」マルクスは謝った。

自分のすべき事がより明瞭になっていくにつれ、マルクス・ボシャートは勇気をかき集めた。

どんな犠牲を払おうとも、すでに打ち勝って得た、この勝利にあくまでしがみついていこう。レグラに話したことも助けになった。彼女は、自分には全く理解できないけれど、共感はしており、自分も神の御目に正しいことだけをなしたいという思いがあることを告げてくれた。

夜が明けるとすぐ、マルクスは言った。「今すぐに、皆を起こしにいくよ。フェリクス・マンツが昨夜言っていたんだけど、マンツたちは今朝早くに、チューリッヒに戻りたいんだって。でも、その前に僕は彼らといろいろ話し合いたいことがあるから。」

マルクスはせっせと動き回り、灯りをともし、居間の暖炉にたきぎを足した。それから彼は義父を呼んだ。

ルディー・トーマンはすぐに現れた。彼は夜通し起きていたような気配があった。二人の伝道者が家族の輪に加わる頃には、部屋は心地よく、温かくなっていた。

マルクスは咳払いをした。「僕は、、、僕は昨晩、眠れなかった」と彼は切りだした。一晩中、心に戦いがあって、それでやっと朝になり、何をすべきかはっきりした。僕は洗礼を受けたい。」マルクスはこうべを垂れた。
「神に栄光と賛美あれ。」フェリクス・マンツは言った。

ゲオルグ・ブラウロックは目の前にいるこの青年マルクスの方を向き、心情込めて話し始めた。「マルクス、君はこれまで一介の陽気な青年にすぎなかった。しかし今、君は新しい人にならなければならない。古いアダムを脱ぎ捨て、神のかたちに倣い、義と真の聖潔のうちに造られた新しい人を着なければならない。」

「そうしたいです」震える声でマルクスは言った。「最善を尽くしてやります。」

「君は心から神の恵みにあずかりたいと思っているか?」ブラウロックは尋ねた。
「はい。」

「それならここに来なさい。私は君に洗礼を授けよう。」

マルクスはゲオルグ・ブラウロックの方に近寄り、彼の前にひざまずいた。彼の心臓はドキドキしており、汗が噴き出していた。一瞬、昨晩の葛藤の記憶が彼を圧倒した。

しかし感謝なことにもうそれは済んだことであった。祈ろうとこうべを垂れているうちに、マルクスは冷たい水が頭にかかり、耳の横を流れていくのを感じた。

これで事は成されたのだ。自分、マルクス・ボシャートは、再洗礼を受けたのだった。もう取り消しはできない。
マルクスが立ち上がると、ブラウロックは聖なる口づけをもって彼にあいさつをした。「主が共におられますように」と彼は言った。フェリクス・マンツも同じようにあいさつした。

雇い人のヴァレンティンが、気後れしながら部屋に入ってきた。レグラは彼に椅子に座るよう示した。

ブラウロックは今やルディー・トーマンに注意を向けて言った。「ルディー。あなたはもう年を召しており、死が近い。悔い改める時間はそう長く残されていないかもしれない。あなたもまだ機会があるうちに、自分自身を高めるべきだと思う。洗礼のしるしを望みますか。」

「望みます。」小老人は答えた。

いつもはおしゃべりな義父が、この間、ほとんど無言なのに、マルクスは驚いた。おそらく今経験していることは、言葉に余りあるものなのだろう。

ブラウロックはルディー・トーマンに洗礼を施した。

レグラは目を見開いて、これらを見ていた。彼女は一語一語に耳を傾け、理解が与えられるよう、神に祈っていた。父が起き上がって席に着くと、彼女は静かに泣き始めた。

ブラウロックは彼女の方に歩み寄った。「あなたも?」彼はやさしく尋ねた。「ご主人と御父さんが模範を示してくれたように、あなたもキリストにある新しい人生を歩みたいと思いますか。」

レグラは心からそれを望んでいた。そして彼女も洗礼を受けた。

ヴァレンティンだけがまだ洗礼を受けずにおり、次は彼の番だった。こうして所帯の最後の一員も、ゾリコンに出現しつつある新しい教会に加えられたのだった。

第6章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第4章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』