ボンヘェファー『キリストに従う』を読んで

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人生は冒険だといわれます。

しかし、人がおよそこの世で経験しえる冒険の中で、キリストに従っていく道ほど冒険に満ちたものはないと思います。

キリストに従っていく道ほど、細く険しい道はなく、またこれほどエキサイティングで楽しい道もないと思います。

私は、二泊三日の修学旅行中でさえ、ホームシックでしくしく泣き出すような弱虫でしたが、キリストと共に人生を歩み出し、気がついてみると、地球の裏側にまで来ていました。

十数年前、信じて間もない頃でしたが、東京の書店で、ボンヘェファーの『キリストに従う』をはじめて手にし、読み始めた時の感動を今でも覚えています。

当時の私は、「キリストに従いたいけど、今まで大切にしてきたもの・固執してきたものもできれば離したくない」という優柔不断な状態にありました。できれば、みんなが認めてくれるような広い道を進んでいきたいとも思っていました。

でも、この本は、私に、「真に神の前に《一人》立つこと」「神の前に個人となること」を教えてくれました。

ボンヘェファーはこう記しています。

服従へのイエスの招きは、弟子を個人にする。

弟子が望もうと望むまいと、彼は決断しなければならない。しかもその決断は一人でしなければならない。

、、(でも)この一人であるということを恐れるあまり、人間は、自分の回りにある人間や事物に保護を求める。

彼はにわかに自分が負わされている責任を洗いざらい持ち出してきて、それにしがみついて離れまいとする。

それに援護を求めた上で、彼は自分の決断を下そうとするが、一人だけでイエスに向かいあって立とうとはしないし、
ただイエスだけを見つめて決断しなければならないことを望まない。

しかし、こういう時に、父も母も、妻も子も、民族も歴史も、その招きを受けている者に保護を与えることはないのである。


さらにボンヘェファーは、キリストが私たち招かれた者から、それまでの関係に対する直接性をすべて取ってしまわれたといいます。

つまり、神と人間、人間と人間、人間と現実――それらすべての間に存在する《関係》の中にあって、キリストのみが仲保者でありたもうのだと。

そして、今まで、「直接的な関係」だと思っていたものは、実は錯覚にすぎなかったのだと彼は言っているのです。

われわれにとっては、キリストを越え、その言葉を越えて行く道、そしてわれわれの服従以外に、他者に至る道はない。直接性は欺瞞である。
     (『キリストに従う』服従と個人、p87‐88)

なんという厳しさでしょう。そして同時に、なんと真実に満ちた言葉でしょう。

☆☆
数年前に、北アフリカの砂漠の民に仕えている一人の勇敢な女性宣教師の家を訪問する機会がありました。

喧騒とした通りから一歩、彼女の部屋に入ると、そこには静けさと聖さがただよっていました。落ち着きある静寂さがどこからも感じられる、そんな空間でした。

古びた木製のデスクの脇には、中型の本棚があり、本が整然と折り目正しく並んでいました。

その時、私は大きなアラビア語聖書の横に、例の『キリストに従う』を見つけたのです。

あの砂漠地帯で、今日も彼女は一人聖書を読み、祈り、そしてキリストとの麗しい交わりの中に憩っていることでしょう。

彼女もボンヘェファーと同様、キリストに従う道、神の前に《一人》立つ道を選びとったのです。

しかし、この道は孤独な道なのでしょうか?

私たちは他の人々ともはや親しい関係を持つことができないのでしょうか?

それに対し、ボンヘェファーは「否」と言っています。逆に、この道をくぐり抜けた人こそ、他者にいたる真の道を見い出すのだと彼は力説しているのです。

われわれをほかの人間から隔てている裂け目、克服しがたい距離、他者性、ほかの人間の無縁性を、自然的あるいは精神的な結合によって克服しようとする試みは、すべて挫折するに違いない。

人間から人間に至る固有の道は通じていない。

最大の愛をこめた感情移入も、考察しぬかれた心理学も、もっとも自然な開放性も、ほかの人間に肉迫することはない。

、、キリストはその間に立ちたもう。キリストを通してのみ、隣り人に至る道がある。
p90」

われわれをそれぞれ個人にしたもう方と同じその仲保者は、しかしまたそれと共に、全く新しい交わりの基礎でもありたもう。

彼は、ほかの人間とわたしとの間の真ん中に立ちたもう。かれは分離したまうが、また一つにもしたまう。したがって、他者に至る直接的な道はすべて断ち切られているけれども、服従する者には、他者に至る新しい・ただ一つ真実の道が、今や仲保者を越えて示されるのである。
p93」

そして「人はそれぞれ一人で服従へと足を踏み入れるが、誰も服従の中で一人のままでいることはない(p94)」と彼は断言しています。

最初にこの箇所を読んだ時、私は「本当にそうなのかなあ。そうだったらいいけど、、」と心もとない気持ちでした。

でも、それが本当だったということを私は自分や周りのクリスチャンの歩みから今、証しすることができます。

キリストの前で《一人》立つことをあえて選びとった人はその旅路の中で、かならず同伴者を見い出すのです。

そして狭い道を、手に手を取り、お互いに励まし合い、いたわり合いながら歩んでいくことができるのです。

アーメン。

クリスチャンと「愛国心」

私たちがこの世に贈ることのできるもの