その2)からのつづき。


最後の弁証


しかしそれ以上に深刻な問題があるのだ。

イエスはヨハネ17章において大祭司としての祈りを捧げているが、その中の一節には次のような祈りが記されている。

父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。

すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。

ヨハネ17:21



ここでイエスは教会が一つとされるよう祈っておられ、この一致が特に真のクリスチャンの間に見い出されなければならないことを言っておられるのだ。

そう、イエスは一般の人間同士のヒューマニスティックでロマンチックな一致のために祈っておられるのではないのだ。

9節がそのことを明確にしている。

わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜った者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。



イエスはここで非常に注意深く線引きをし、区別しておられるのだ。――すなわち、主に信仰を持った者と、未だに主に背を向けている者との区分を。

それゆえ、21節で主が一致のために祈っているその「彼らの一致」とは、真のクリスチャンの間の一致であることが分かるのである。

☆☆

しかしここで留意すべき点がある。

21節では「みんなの者が一つとなるため、、、」とあるが、興味深いことに、ここでの強調点もヨハネ13章とまったく同じところに置かれているのだ。

すなわち、一部の真のクリスチャンだけでなく、全てのクリスチャン――ある特定の派やグループだけが一つとなるようにではなく、新生した全てのクリスチャンが一つとなるよう、イエスは祈っておられるのである。

☆☆

そしてここで私たちは深刻な点に直面するのである。

21節で言っておられるイエスの言葉は、いつも私をたじろがせるのだ。

そして、一キリスト者として、もし私たちが心にたじろぎを覚えないのなら、おそらく私たちは、この問題に対する繊細な感覚にも真摯さにも欠けているのかもしれない。

なぜなら、ここでイエスは私たちに最後の弁証をしておられるからだ。

それでは最後の弁証とは何だろうか。

父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。



これが最後の弁証である。

ヨハネ13章における要点はこうであった。すなわち、もし個々のクリスチャンが他の真のクリスチャンたちに愛を示さないのなら、その時、この世は「あの人はクリスチャンではない」と判断を下す権利があるのだと。

しかし21節のこの箇所では、イエスはそれとは別の何か――身を切るように鋭く、さらに深遠なこと――を言っておられるのだ。

そう、「真のクリスチャンたちの間の一致」というリアリティーをこの世が目の当たりにしない限り、この世は、御父が御子を遣わされたということも、イエスの言説の真実性も、キリスト教の真理も信じないだろうということを。

☆☆

これは恐ろしい事である。この現実に直面して心にざわめきを覚えない人がいるだろうか。

しかしまたここで注意してほしい。

イエスはこれを基準に(相手がはたして本物のクリスチャンであるかどうか)クリスチャン同士、お互いに裁き合えとは言っておられない。

この点にはどうか十分留意してほしい。

教会はある人がクリスチャンであるか否かを、彼の信じる教理、信仰の命題的内容、そして真実なる信仰告白を基準に判断する。

しかしこの世に対しては、私たちはそういう判断を期待できない。

なぜなら、この世の人にとっては、キリスト教の教理などまったく重要なものでないからだ。

そしてこの傾向は、20世紀後半以降、特に著しい。

というのも、この世は自らの認識論をベースにし、この世界に絶対的真理があるという可能性さえ、もはや信じなくなっているからである。

そして、もはや真理という概念自体を信じなくなったこの世に囲まれ、私たちは生きているのである。

そうであるなら、ある人の信じている教理が正しいか否かなど、この世の誰が関心を持つだろう?そう、私たちはそんな事をこの世の人々に期待することはできない。

しかしイエスはこの世の注目を引くある一つの標をお与えになった。

それは何か?

真のクリスチャンたちが――自分の属する特定の群れや派に限定することなく――互いに愛し合うその愛、それこそが標(しるし)なのだとイエスは言っておられるのである。


正直な応答、目に見える形での愛


もちろん、私たちはクリスチャンとして、率直な問いに対する率直な答えを提示する必要を軽視してはならない。

知的な弁証というのは確かに必要である。聖書がそれを命じており、キリストとパウロがそれを例証している。

シナゴーグで、市場で、家々で、あらゆる状況下において、イエスとパウロはキリスト教について論じていた。

だからそれと同様、率直な問いに対し率直に答えていくというのはキリスト者の責務なのである。

☆☆

しかし、キリストは仰せられるのだ。

真のクリスチャンの間に互いへの愛がないなら、たとい私たちが正当な答えを提示できたとしても、この世は私たちに耳を傾けないだろうと。

だから、率直な答えを提示すべく生涯ひたすら学びだけに没頭するという態度には気を付けなければならない。

長年、正統派福音主義教会はこの点に関してしくじってきたと思う。

周囲にいる人々の持つ問いに答えるべく学びに時間を割くのはかまわない。しかし、失われたこの世に対しどのように使信を発していけばいいのかということをできる限り学んだ後も、次のことは肝に銘じておく必要がある。

すなわち、イエスが最後の弁証として与えておられるのは、真のクリスチャンの(他の)真のクリスチャンに対する「目に見える形での愛」であるということを。

☆☆

今回の中心テーマでこそないが、この世を前にした、真のクリスチャンの間の「目に見える形での愛および一致」は、人間を隔てているあらゆる境界線を乗り越えさせるものだろう。

新約聖書はこう言っている。「ユダヤ人もなくギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もない」と。

もしこの世が私たちの愛を目の当たりにしないなら、彼らはキリストが御父から遣わされた方であるとは信じない。

世の人々は妥当な答えだけでは信じようとはしない。

そしてこの両者は互いに相反するものとして捉えられるべきではないのだ。

繰り返し言うが、この世はその率直な問いに対する率直な答えを必要としている。

しかしそれと同時に、すべての真のクリスチャンの間に愛による一致が不可欠である。

そしてこれが、「イエスが御父から遣わされた方であり、従ってキリスト教は真理である」ということを人が知るにあたり必要とされている事なのである。



(その4)につづきます。



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