その3)からのつづき。



「一致」に対する誤った考え


しかしこの「一致」が何を意味するのかについて、ここで明確にしておきたい。

それではまず、それに関する誤った考えを取り除いていくことから始めよう。

第一に、イエスが語っておられる一致というのは、単なる組織的一致ではないという点だ。

その古典的な例は、歴代のローマ・カトリック教会である。

ローマ・カトリック教会はこれまで偉大な外面的一致を保ってきた。

おそらくこの世界に存在してきた団体のうち、これほどの外的・組織的一致を保ってきた団体はかつて存在しなかっただろう。

しかしそれと同時に、この教会の中には、巨大にして憎悪に満ちた内部権力抗争――これが今までずっと続いてきた。

今日においても、古典的ローマ・カトリシズムと、漸進的ローマ・カトリシズムの間には相当の違いがみられる。

ローマ・カトリック教会は今もなお、組織的一致の中に立とうとしてはいるが、それは単なる組織的団結にすぎない。

なぜなら、そこには二つの完全に異なる宗教、二つの異なる神概念、二つの異なる真理概念が存在するからである。

☆☆

そしてまさしくそれと同じことが、プロテスタントのエキュメニカル運動についても言えるのだ。

イエスの言葉を根拠に、組織的に人を連合させようという試みであるが、そこに真の一致はない。

なぜなら、そこには二つの全く異なる宗教――

1)聖書的キリスト教、そして

2)「キリスト教」(しかし実のところ、これはキリスト教では全くない)



が入れ混じっているからだ。

それゆえ、組織的一致のために一生涯をそこに投資した挙句、でも実際には、イエスがヨハネ17章で語っておられる領域には全く至っていなかった、ということも大いにあり得るのだ。

☆☆

キリストがここで語っておられる一致を「組織的なもの」と解釈できない理由はまだ他にもある。

そう、ここでイエスは、「みんなの者が一つとなるため」という聖句通り、――すべてのクリスチャンが一つとならなければならないと言っておられるのだ。

この世に散らばっている新生したクリスチャン全てを含んでいる組織的一致というのはもちろん存在し得ない。

それは全く不可能な話である。

例えば、新生した真のクリスチャンの中には、どの組織にも属していない人々がいる。

また迫害によって外界から遮断された所に置かれている真のクリスチャンたちを一つの組織がいかに網羅できるというのだろう。

組織的一致というのが答えでないことは明らかである。

☆☆

また一致に関する誤った概念は他にもある。

この見解は福音主義クリスチャンがしばし自身の隠れ家としてきたものである。

彼らは言う。「イエス様がここで言っておられるのは、もちろん、目に見えない教会の神秘的結合についてですよ」と。

そして彼らはそれで一件落着とばかりに、それ以上はもう何も――もう一切何も――考えようとしないのである。

☆☆

神学的な用語にはもちろん、「可視的な教会」と、「不可視的な教会」という二語が存在する。

そして後者の「不可視的な教会」というのが真の教会(Church)であり、ある意味、唯一大文字のCで綴る権利を有する教会である。

なぜなら、それは、キリストを救い主として信じ受け入れてきた全ての信仰者で構成され、最も重要なものであるからだ。これこそキリストの教会(Church)である。

クリスチャンになり、キリストを信じた瞬間、人はこの(目に見えない)教会の一員になる。

そしてそこには他の全てのメンバーとその人を結ぶ神秘的一致というのが存在するのだ。それはその通りである。

しかしイエスがヨハネ13章および17章で言及しておられるのは、そういう意味における一致ではない。

なぜなら、目に見えないこの一致は、私たちが何をしたところで、決して壊され得ないものだからである。

それゆえ、ここでのキリストの言葉を、不可視的な教会の神秘的一致に関連づけることは、とりもなおさず、キリストの言葉を意味のない空言にしてしまうことに他ならない。

☆☆

三番目の点であるが、イエスはここでキリストにある私たちの地位的一致(positional unity)についても言及はしておられない。

もちろん、キリストにある地位的一致は存在するし、キリストを救い主として信じ受け入れた時点で私たちには、一つの主、一つのバプテスマ、一つの誕生(そして二度目の誕生)が与えられ、私たちはキリストの義を着るようになるのだ。

しかしそれはここでの要点ではない。

福音主義クリスチャンが、目に見えない教会の概念やそれに関連するその他の「一致」の概念の中に逃げ込もうとする姿勢は望ましくないと思う。

ヨハネ13章と17章の中の聖句を、ただ単に、不可視的教会の存在とだけ結びつけて考えることは、イエスの言明をナンセンスなものとしてしまう。

そう、イエスが何か可視的なものについて語っておられたと理解しない限り、私たちは事実、イエスの言っておられることをなぶり物にしてしまう結果にさえなってしまうのだ。

これが主要点である。

つまり、この世は、はっきりと観察される形での何かを根拠に、イエスが御父によって遣わされた方であるか否かを判断するのである。



(その5)につづきます。






『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(5)

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