その4)からのつづき。



まことの一致


ヨハネ13章と17章において、イエスは、すべての真のクリスチャンの間での、真に目に見える形での一致、実践する一致、あらゆる境界線を超えた実際的な一致について語っておられる。

キリスト者には実に二重の責務が課せられているのだ。

私たちは神の神聖さ神の愛、その両方を実践しなければならない。

神が無限にして個人的な(infinite-personal)方として存在しておられることを世に示さねばならず、それと同時に、聖さと愛という神のご性質をも表していかなければならない。

愛なしの神聖さではない。――それはただの冷厳にすぎない。

また神聖さなしの愛でもない。――それはただの妥協にすぎない。

御言葉およびキリストの教えによれば、表される愛というのは、非常に強烈なものでなければならない。

そしてそれは、時折、ただ口先だけで言うような種類のものではないのだ。


可視的な愛


それでは、この愛とは何を意味しているのだろうか。

どのようにすれば、それは可視的なものになるのだろうか。

まず第一に、これは非常にシンプルなことを意味する。

つまり、私が過ちを犯し、自分の同胞クリスチャンを愛すことができなかった時に、彼の所に言って、「ごめんなさい」と謝ることである。

これがまずやるべき事である。

「こんなに単純なことが第一のもの?」と期待外れに思った方がいるかもしれない。

しかしそれがたやすい事だと思ったのなら、あなたはまだそれを真剣に実践しようとしたことがないのかもしれない。

内輪のグループの中で、クリスチャンの集いの中で、あるいは家庭の中でさえ、お互いに対する愛に欠けていたことに気づかされる時、クリスチャンとして私たちは自動的に相手の所に行き、「ごめんなさい」と言うだろうか。

そう、もっとも身近なレベルであってさえも、それは決して容易な事ではないのだ。

☆☆

「ごめんなさい」そして「赦してください」と言う事。

こんなことは当たり前過ぎるのだろうか。

しかし実際はそうではない。

夫と妻の間であれ、親子、クリスチャンの集まり、ないしはグループ内の関係であれ、それは回復されし交わりへの道なのである。

相手に十分な愛を示すことができなかった時、私たちは相手の所に行き、「ごめんなさい、、、本当にごめんなさい」と謝るよう神に呼ばれているのである。

☆☆

私が誰かに対して過ちを犯し、しかもその彼を愛していなかった場合、そして彼に「ごめんなさい」と謝りに行くことを自分が拒む時、そんな時私は、「世の人が見ることのできるクリスチャンの一致」という意味について、考え始めることさえ未だしていないのかもしれない。

そんな自分がはたしてクリスチャンなのかとこの世がいぶかしがるのも不思議ではなく、世の人には実際、そのような疑問を抱く権利があるのである。

それだけでない。

繰り返して言うが、もし私がこんな初歩的なことの実践をさえ拒むなら、その時、世の人は、「イエスは、はたして神から遣わされたのか」、「キリスト教はほんとうに真理なのか」と疑問を投げかけて当然なのである。

☆☆

これまで多くの国で、真のクリスチャン同士の間にもちあがる相違点をめぐったいざこざを私は目の当たりにしてきた。

真のクリスチャンという個々人や群れを分裂させ、隔てているもの、――20年、30年、40年経ってもまだ癒えないわだかまりや苦々しさを残しているもの――これは、教理や信条の相違がもともとの原因ではないのだ。

そう、例外なくきまって、その原因は、愛の欠如――そして、相違点をめぐる議論のさなかで相手側の真のクリスチャンから言われたひどい言葉――にあるのだ。

そして投げつけられたそういう言葉は、私たちの脳裏にこびりついて離れようとしない。

歳月が経ち、そういった相違点がやや緩和されたかにみえる時であっても、そこには、(公明正大な話し合いの場だと思っていたあの時に)私たちが相手に言い放った、辛辣でむごい言葉の数々が依然として残っているのである。

そしてこれが――こういった愛のない態度や言葉――が、イエス・キリストの教会に悪臭を放たせ、この世はそういった「本物のクリスチャンである人々」の間に漂うその悪臭に気づくのだ。

☆☆

真のクリスチャンとして、私たちはどうしても同意できないと感じる時があるだろう。

しかしそんな時であっても、私たちは舌を制御し、もっと愛をもって語れたのではないだろうか。

そうしたならば、わだかまりや苦々しさは5年や10年のうちに消えてなくなっていたかもしれない。

しかし私たちはそうする代わりに、相手の内に傷跡を残していくのである。

――そう、何世代にもわたって続く呪いを。

そしてこの呪いは教会内だけにとどまらず、この世における呪いともなっていくのである。

☆☆

そんな私たちを見て、この世の人々は身をすくめ、そして立ち去ってしまう。

この世は、死にゆく文化のただ中にある生ける教会の始まりさえ見ていないのだ。

そしてこの世は、イエスの最後の弁証――キリストにある真の兄弟である、本物のクリスチャンの間に可視的にみられる一致――の始まりさえ見ていない。

真のクリスチャンの間に存在する相違点そのものではなく、むしろ、辛辣な舌、私たちの間の愛の欠如こそが、この世にひどいつまずきを与えているのだ。

そしてこれはイエス・キリストのまっすぐで直接的な掟からなんと隔たっていることだろう。

――そう、私たちのことをじっと見ているこの世に分かる形で、はっきりと観察されうる一致を表していきなさいというイエスのあの掟から。




(その6)につづきます。




『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(6)

『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(4)