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(その6)からのつづき。
クリスチャンの間で意見の相違がある時
しかしながら、私たちがキリストにある他の兄弟たちとどうしても意見を異にしなければならない状態になった時、――教理において、また生き方の面において、神の神聖さを表さなければならない状況にさらされた時――、その時、私たちはどうすればいいのだろう。
生き方や生活に関する事柄において、パウロはコリント人への手紙第一と第二の中で、はっきりとバランスを示してくれている。同じことが教理の領域にも適用されるだろう。
まず、1コリント5:1-5の中で、パウロはコリント教会を叱責している。
――なぜ戒規することなく、不品行の罪を犯し続けている者を教会にとどめているのかと。
神の神聖さゆえ、そして教会をじっと見ているこの世に対しこの神聖さを示すという必要性ゆえ、そして啓示された神の掟を基としたそのような裁きは神の御目に正しいことであるゆえ、パウロはこの人に戒規を行使しなかった教会を叱責しているのだ。
☆☆
そして彼らがこの人に対し戒規を施した後、パウロは再びⅡコリント2:6-8の中で彼らに手紙を書き、今度は、彼らがこの人に愛を示していないことで彼らを叱責しているのだ。
この二つの事は合わせて考えられなければならない。
私はパウロが最初の手紙と二番目の書簡の中でこのように手紙を書いたことを感謝している。
なぜなら、ここで私たちは時間の経過をみることができるからだ。
コリントの人々はパウロの助言を受け入れ、実際にそのクリスチャンを戒規し、そして今パウロは彼らに書き送っているのだ。「あなたがたは確かに彼を戒規している。しかし今彼に愛を示したらどうか」と。
また彼は手紙を続け、イエスの御言葉を引用しながら次のように言うこともできたかもしれない。
「あなたがたを取り巻くコリントの異教徒たちに、『イエスは御父から遣わされなかった』と言われて当然ではありませんか。というのも、あなたがたはきちんと戒規処置を施したあの人に対して愛を示していないからです」と。
☆☆
ここで非常に重要な問いが持ち上がってくる。
「私たちはいかにして、相手の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく、尚且つ、キリストの命じておられる一致を示していくことができるだろうか。」
私はここで二、三の方法を提示したいと思う。
それにより、自分たちが意を異にしなければならないラインを超えた所にあってさえも、引き続きこの一致を実践し、示していくことができればと願う。
遺憾の念
まず第一に、私たちは、真のクリスチャンたちとの間のそのような相違に対峙しなければならなくなった際、遺憾の念と涙なしにそれらを行なってはならないということである。
単純なことのように聞こえるかもしれない。
しかし福音主義クリスチャンはしばしこの点で失敗している。
私たちはここぞとばかりに――そして多くの場合、非常に嬉々としつつ――相手側の誤りや荒探しをするのだ。
そして相手側をけなし粉砕することによって、自らを打ち建てようとする。
そしてこのような姿勢からは決してクリスチャンの間の真の一致は見い出し得ない。
☆☆
真のクリスチャン同士の間で、やむを得ぬ意見の対峙があった場合、この世の目に私たちは次のように映る必要がある。
つまり、私たちが互いに対峙しているのは、自分たちが血の臭い、円形闘技場の臭い、闘牛の臭いを愛好しているからではなく、ひとえに神のためにそうせざるを得なくなったからなのだと。
そしてどうしても声を挙げなければならなくなった際、そこに涙が伴うなら、その時そこに美しいなにかが見いだされるかもしれない。
☆☆
二番目に、真のクリスチャン同士の間の問題の深刻さに比例し、私たちは意識してこの世に可視的な愛を示していくことが大切である。
クリスチャン間に存在する相違点すべてが同質という訳ではない。
いたってマイナーな違いもあれば、きわめて深刻な相違というのも存在する。
間違いや誤謬が深刻であればあるほど、神の神聖さをはっきりと示し、何が間違っているのかを公に指摘することがますます肝要になってくる。
それと同時に、そういった相違点が深刻化していけばいくほど、私たちはますます、相手側の真のクリスチャンたちに対し愛を示していくことができるよう聖霊に寄り頼んでいく必要がある。
もしこれがささいな違いであれば、愛を示していくことはさほど深慮するに及ばない。
しかし相違点が非常に深刻なものとなるなら、それに比例し、神の神聖さゆえに、ますます大胆に声を挙げていくことが重要になってくる。
そしてその時点においても、私たちは依然として互いに愛し合っているということを世に示していくことがより一層肝要になってくるのである。
☆☆
それゆえ、次のことを考えてみよう。
キリストにあるあの兄弟と私との間に横たわる相違点は本当に深刻きわまりないものだろうか。
もしそうなら、なおさらのこと、私は主の前に跪き、「私や私の属する群れを通し、主よ、あなたが働いてください」と御霊に、そしてキリストに祈り求めることが重要だ。
そうすることにより、私(私たち)は、キリストにあるあの兄弟もしくは、他のグループに属する真のクリスチャンたちとの間に生じたこういう大きな相違のただ中にあっても、依然として彼らに愛を示していくことができるのである。
(その8)につづきます。
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