クリスチャンと「愛国心」


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愛国心とはなんでしょうか。

「国」を愛するとはどういうことでしょうか。

わたしたちクリスチャンは、愛国心をもつべきなのでしょうか。

それとも、もつべきではないのでしょうか。

☆☆

その1

ギリシアの愛国党台頭

ここギリシアでは経済危機が深刻化するとともに、「黄金の夜明け」という、極右愛国党の活動が目立ってきました。

昨年、バスに乗っていたら、ちょうど、「黄金の夜明け」の街頭パレードに遭遇しました。

黒いTシャツに、短く頭を刈り込んだ若者たちが、ナチスの鉤十字に似た党旗を振り、「血、名誉、黄金の夜明け!」を連呼していました。戦前のナチス台頭を思わせる不気味な光景でした。

また、この愛国党は、移民排斥を強く主張しており、私たちの教会の難民の兄弟たちの多くも殴る・蹴るの暴行を受けました。特に、行き場のないホームレスの難民たちは彼らの攻撃の的となっています。

そして、とても残念なことに、彼ら党員は、「(正教徒)クリスチャン」なのです。――ちょうど、ナチス党員が「ルター派クリスチャン」や「カトリック教徒」であったと同じように。

そして、襲われている難民の中にも実際、イエスさまを救い主として信じているクリスチャンが多くいるのです。

つまり、彼ら党員の中で、《愛国心の原理》は、《クリスチャンとしての同胞愛》に優先しており、この原理の前に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ15:12)」というイエスさまの御言葉は踏みにじられているのです。

葛藤と探究

私はこの「クリスチャンと愛国心」という問題について、長い間いろいろと悩み、考えてきました。

ある時期は、解決の手掛かりを得ようと、アメリカの聖書信仰のクリスチャンの著作や講義を熱心にききました。その中で私は多くのことを学びました。彼らの聖書に対する敬虔な姿勢に心を打たれました。

しかし、こと「愛国心」に関する彼らの言論には何かしら疑問を感じてしまいました。

この方々はまず「アメリカ=クリスチャン・ネーション=神に愛されている国」という前提をもとに、さまざまな教え(愛国心、正義の戦争など)を打ちたてているようでした。

ということは、もともと「クリスチャン・ネーション」ではない日本に生まれ育った私のような者には、彼らの教えを自分のコンテクストにあてはめ、それを適用していく資格はないということになります。

でも、聖書の教えには普遍性がともなうはずです。真理そのものが普遍的なものだからです。

だから、もしある教えがある一国だけに通用し、他の国に住むクリスチャンには適用不可能なもの(局地的なもの)であるなら、はたしてその教えは聖書的なものなのでしょうか。そこに真理はあるのでしょうか。

また、あるクリスチャンの人々によれば、私は「日本人」なので日本に対する愛国心を持つべきだということでした。そして「神さまは日本を愛しているのだ」と。

たしかに神さまが日本に住んでいる人々を愛しており、それぞれの国に住んでいる人々を愛しておられることは分かります。

でも、「神さまは《日本》を愛している」あるいは「God loves America」、、などの言葉をきくと、「うーん、、、」と違和感を感じてしまう自分がいました。

神さまは人を愛している
神さまは生き物や木々、花々を愛している、、

これはよく分かります。でも、たとえば、「神さまは冷蔵庫を愛しています。」「神さまは○○会社を愛しています。」――とはいえません。人格を持った神さまは、人格をもった人間や、被造物を愛しておられるのであって、〈モノ〉や〈組織〉は、神さまの《愛する》対象ではないからです。

では〈国家〉はどうでしょう?神さまは、国(ないしは近代国家)という政治体を《愛して》おられるのでしょうか。

「わたしの国はこの世のものではありません(ヨハネ18:36)」と仰せられたイエスさまは、ご自身の教会の庭に打ち付けられた星条旗や、ギリシア国旗などをみて、どう感じておられるのでしょうか。

水草修治先生という牧師先生が、「愛国心という歴史現象」というすぐれたブログ記事を書いておられます。これを読むと、愛国心というもの自体、きわめて近代的な現象であることが分かります。(水草先生の記事を読みたい方は愛国心という歴史現象をクリックしてください。)

また、レオナルド・ヴェルドゥインは、 The Anatomy of a Hybrid, A Study in Church-State Relationships(=《交配種》の解剖―教会と国家の関係についての考察)という著書の中で、コンスタンティヌス帝以降、いかにして教会と国家が婚姻関係を結び、その結果、おそろしく不気味な《交配種》が生み出され、今日に至っているのかということを明快に論じています。とても読み応えのある本です。

The Anatomy of a Hybrid

その2

愛国心の実態

(その1)で書いギリシア愛国党(「黄金の夜明け」)に話が戻りますが、彼ら党員は、貧しさにあえぐギリシアの民衆に無料で食糧を配給したり、一人暮らしの高齢者を助けるなど慈善活動もしています。

しかし、その対象はあくまで「ギリシア人に限る」となっています。

つまり、お腹をすかせた二人のホームレスが同時に手を差しのばしても、配給にありつけるのは、「ギリシア人」のホームレスだけであって、相棒のアルバニア人は「外国人」という理由で拒否されるのです。

ここに、「愛国心」という思想のもたらす典型的帰結をみることができないでしょうか。

「いや、私たちは《健全な》愛国心を持つことはできるし、持つべきだ。いったい自分の国を愛せない人に、どうやって他の国の人々を愛することができよう?」といって反論されるクリスチャンの方がいるかもしれません。

これは私がかつて自身に問うていた質問でもありました。でも聖書のどこをみても、「まず自分の《国》を愛しなさい」というような教えはありません。

にもかかわらず、上のような問いが一見、もっともらしく聞こえるのは、私たちが、「まず自分自身を愛しなさい」という今流行りのメッセージに慣れっこになってしまっているからかもしれません。でも、よくよく考えると、こういった教えには聖書的根拠がないのです。

「でも、内村鑑三はどうなんですか。彼は『二つのJ(Jesus and Japan)』と言って、愛国精神を説いていたではありませんか」という問いもでてきそうです。

たしかに内村の著作の中には、祖国日本を強く意識した作品も多くみられます。でも、ここで注意しなければならないのが、当時、彼がどのような状況に置かれていたかということです。

あの時代、彼は国粋主義者たちから「非国民」呼ばわりされ、糾弾されていました。「クリスチャンというのは非国民なんだ」という責めを受けていたのです。

だから、そういった中傷・誤解に対し(また西洋的なキリスト教との相克もあり)、内村は弁明的な意味合いを込め、あえて「日本」を強く打ち出すことによって、クリスチャンが社会に有害な非国民などではないことを世論に訴えようとしたのではないかと私は思います。

そういった意味で、内村の「愛国」を文脈を無視して引用しはじめると、大変なことになります。

実際、内村門下のグループの中には、その路線でどんどん推し進めていった結果、しまいには、内村にあれほど迫害を加えた当の国粋主義者たちとそっくりの思想を持つに至る人々もでてきました。なんという皮肉でしょうか。

「愛国心」と「クリスチャン精神」を両立させようとする試みがことごとく失敗に終わってきたのは歴史の証明するところでもあります。

Jonathan Mayhew等、愛国精神に燃えたアメリカ植民地の牧師たちは、講壇から好戦的なメッセージを説き、米国独立戦争に火をつけるのにかなりの影響力がありました。

こういった人々の説教録を読むと、アメリカ合衆国への彼らの《愛国心》は他のすべてに優先しており、聖書のことばも、この愛国精神に矛盾しない限りにおいて、それを受け入れ、そうじゃない場合は、みことばは曲解されるか、切り捨てられるかしています。(例えばローマ13章)。

一般に、教会の講壇から「愛国」がさかんに説かれるようになった暁には、戦争がもうすぐそこまで来ている(もしくはその教会がすでに政府の御用機関になりさがってしまった)とみていいと思います。

私たちが「二人の主人に仕えることができない」というのは、この場合においても、まことにしかりだと思います。

神の国への情熱

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イエス様は、神の福音を宣べて言われました。「時が満ち、神の国は近くなった(マルコ1:15)」。

私たちの国籍は天にあり(ピリピ3:20)、私たちは信じて神の民とされました(1ペテロ2:10参照)。またイエスは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(マタイ6:33)」とおっしゃっています。

福音書を素直な心で読む人はだれでも、イエスの言っておられる「神の国」というのが、たんなる抽象概念ではなく、実に生き生きとした「今、ここにある」現実だということに気づくと思います。

そうです。イエスがおっしゃったように、神の国は、わたしたちの「ただ中にある」のです(ルカ17:21参照)」。

また、この国は、からし種のようなもので、畑に蒔くと、どんな種よりも小さい。でも、生長すると、どの野采よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になる(マタイ13:31-32参照)とイエスは言っておられます。

そして《この国》には、もはや政権交代もなく、不正・汚職もなく、憲法改正の心配もなく、その力と栄えはとこしえに続き(マタイ6:13参照)、移り変わりがないのです。

なぜなら、神の国の王であるイエスは、「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」だからです(ヘブル13:8)。

このことを黙想するとき、私の心は燃え上がります。

これまで、福音右派、リベラル左派、、その他、何々派という名のつくいろんなところを、右往左往してきました。それぞれの「派」の中によい点、学ぶべき点を発見しつつも、私のたましいは、そのどこにも波止場をみいだすことができずにいました。

国家に対して、それぞれの「派」のとっている立場にかんしても、私は自分の心が本当に納得するような、そんな考え方を長い間、みいだすことができずにいました。

でも、この《神の国》のリアリティーに霊の目が開かれた時、私ははじめて心から「そうだ!」と応答することができたのです。

そして自分に残された時間とエネルギーを余すところなく、《この国》とその王イエス・キリストのために注ぎ出したいという情熱に駆りたてられました。内側から喜びが湧いてきました。

人は誰でも、何か(誰か)に「属したい」そしてそこに「尽くしたい」「自らの魂を注ぎ込みたい」という願いがあるように思います。

そしてその願いは私たちが考えている以上に強く、切実なものだと思います。それゆえに、歴代の為政者は、巧みな操作によって、人々の「愛国心」を煽り、「属したい」「尽くしたい」という人々の純な願いを自らの利益(国益)のために利用してきたといえます。

でも「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです(ヘブル13:16)。」

そして、私たちは、私たちの真の祖国である神の国のために、そして麗しい王イエスのために、惜しみなく愛を注ぎつくすことができるのです。

御国が来ますように。
アーメン。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

追伸)現在、日本でも全体的に右傾化が進んでいるということをきいています。教育現場で働いている友人をはじめ、多くの兄弟姉妹がこのただ中にあって、懸命に主に従おうとしています。

それぞれ置かれた場所で善戦していらっしゃる兄弟姉妹お一人お一人の上に、主の御助けがありますように切にお祈りします。

また、私たちクリスチャンが、手に手を取り、お互いに励まし合い、祈りつつ、この道程を歩んでいくことができますよう、お祈りします。イエス・キリストの御名によって。アーメン。

「真実一途」 三谷隆正の作品を読んで

ボンヘェファー 『キリストに従う』を読んで