(その7)からのつづき。



犠牲の伴う愛


三番目に、私たちはこういったディレンマの最中にあって、――たといそれが犠牲を伴うものだとしても――実際的な愛を示していかねばならない。

愛という言葉が単なるスローガンであってはならない。

つまり、たとえどんな代価を払うことになろうとも、この愛を示すべく、為されるべきことは万事を尽くし為されなければならないということである。

口先で「愛しています」と言っておきながら、その後、相手を攻撃するような真似は断じてしてはならない。


そして聖書はこういったことを許してはいない。1コリント6:1-7には次のように書いてある。

6:1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。

6:2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

6:3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

6:4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。

6:5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。

6:6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。

6:7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。



これは何を意味しているのか。

教会は悪をそのまま見過ごしにしてはいけない。

しかし、クリスチャンは他の真のクリスチャンを訴訟するよりはむしろ、――真のクリスチャン同士が持つべき一致を示すべく――実際的、そして金銭的な損失をも甘受すべきであるということなのだ。

なぜなら、相手のクリスチャンを訴え出ることはとりもなおさず、私たちをじっと見つめている世の前で、こういった目に見える一致をぶち壊すものだからである。

これは犠牲を伴う愛である。

しかしこの世に顕され見ることのできる愛というのは、実践を伴うそのような愛をおいて他にはないのである。

☆☆

パウロはここで目に見えるなにか、実にリアルな形でのなにかについて語っている。

つまり、一キリスト者は、自分の兄弟との間の不可避的意見の食い違いがある最中にあっても愛を示す必要があり、その愛が彼をして損失をも自ら進んで甘受せしめるのだと。

またその損失とは金銭的なものだけにとどまらず、あらゆる種類の損失を含むのだ。

(しかし残念なことに、大半のクリスチャンは事がいざ金銭がらみになると、とたんに愛も一致も何もかも忘れ去ってしまうようにみえる。)

☆☆

さて、自分たちの兄弟の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく愛を示す四番目の方法であるが、それは、相手を打ち負かそうという動機ではなく、なんとか問題を解決したいという願いを以てアプローチすることである。

負けたい、敗北したいと思う人は誰もいない。

実際、神学者ほど、何が何でも勝利を得たいと熱望している人々はいないだろう。

神学の歴史は、――勝利をめぐっての――こうした小競り合い史であると言っても過言ではない。

☆☆

しかし私たちが肝に命じておかなければならないのは、こういった相違点をめぐっての私たちの働きはあくまで「解決」を求めての取り組みであるということだ。

――そう、神に栄光を帰し聖書に忠実な解決、そして尚且つ、神の「神聖さ」と「愛」、その両方を示していくという解決である。

意見の相違について自分の兄弟と話し合う時、あるいはグループの一員として他のグループと話し合う時、その時、私たちの態度はどんなであろう。

もしそこに愛を求める願いがあるなら、私たちは相違点について議論する際にも、単に自分たちの正当性を明かしたいという思いだけでなく、解決を求める願いをもそこに見いだすことだろう。



(その9)につづきます。





スポンサーサイト

『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(9)

『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(7)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。