その8)からのつづき。



違いの「違い」


自分の兄弟の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく愛を示す五番目の方法――それは、私たちが、

1)妥協してしまい、誤りを是とみなすようになる事が大いにあり得ると同時に、

2)キリストにある一致を示すことも往々にしてないがしろにされやすい。



という二点を認識し、たえず意識的にこのことを覚え、互いに注意し合い助け合うことである。

そしてこれは真のクリスチャンの間に意見の相違が起こる前に、言及しておくべき内容である。

――自分たちを見つめる世の前で――真のクリスチャンたちが、いかに実際的な形で神の神聖さに対する忠誠を示すと同時に、神の愛に対する忠誠を示していくことができるのか?

ありとあらゆる種類の会議が開かれるが、こういったテーマに取り組むクリスチャンの集まりがいったいどれほどあるだろう。

また、1)教理と生活における(可視的)教会の聖さを実践していく上での原則、2)すべての真のクリスチャンの間における目に見える形での愛および一致を実践していく上での原則、こういう一見して相反するようにみえる二つの原則を入念に提示しているような説教や書籍はどこにあるだろう。

☆☆

私たちを見つめる世の前で、意見の相違にもかかわらずこういった目に見える愛が表されていく時、クリスチャンの取り扱う「相違」と、世の人々の取り扱う「相違」との違いが浮き彫りにされるのだ。

この世はおそらく、何のことでクリスチャンたちが互いに意見を違わせているのか理解しないだろう。

しかし彼らはこの世の「食い違い・相違」とクリスチャンのそれとの間の違いをすぐに見抜くのだ。

――そう、実際的なレベルにおいて、もしもそういった私たちの相違点が、目に見える率直な愛の中で取り扱われているのをこの世が目の当たりにするなら、である。

☆☆

たしかにここに違いがあるのだ。

なぜ「この世が注目するのは実にこの点なのだ」とイエスは言われたのだろうか?

教理的違いをこの世に理解してもらうことは望むべくもない。

特に今日においてはなおさらそうである。というのも、現代のこの世においては、まことの真理や絶対的なものの存在自体が――概念としてでさえ――あり得ないものとして捉えられているからである。

また、「神の神聖さに基づき、私たちには、この世とは違う種類の『意見の相違』があるのです。なぜなら、私たちは神の絶対性を取り扱っているからです」と私たちが世に言ったところで、この世はそういった事を理解してはくれない。

しかし意見を異にしながらも尚、互いの間に存在する一致を私たちが示していくその時、彼らは、キリスト教の真実性および、「御父が御子を遣わした」というキリストの言葉について真剣に考え始めるだろう。

そしてその時こそ――つまり、私たちの間に意見の相違があるその時こそ――平穏な時以上に、ここでイエスの語っておられる事を世に示すことができるのだ。

☆☆

とは言え、もちろん、あえて互いの違いを見つけ出そうとはすべきでないし、それに、努力して探さなくとも、相違点というのはもうすでに互いの間に十分すぎるほどある。

しかしそういう意見の相違のただ中にあって、私たちはすばらしい機会を見出すことができるのである。

すべてが順調にいき、皆が皆、小さなサークルの中にきちんと納まっている時には、この世は別段私たちに関心を持っているわけではない。

しかし、いざ私たちの間にまことの相違が生じ、その中で私たちが妥協のない原則を示しつつも同時に、目に見える形で愛を示していくなら、その時、この世は私たちの間に「なにか」を見るのである。

そして「この人たちは本物のクリスチャンであり、本当にイエスは御父から遣わされた方なのかもしれない」と、彼らはその「なにか」を通し、そのように判断していくだろう。




(最終回)につづきます。







『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(最終回)

『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(8)