その9)からのつづき。


実践を伴う愛


そういった目に見える愛を示す美しい二つの実例をここで紹介したいと思う。

一つ目の事例は、第二次大戦直後に、ドイツにあるブラザレンの群れの中で起こった。

教会を統制するべく、ヒットラーはドイツ内にあったあらゆる宗教団体を合併させる法令を出した。

そしてこの問題をめぐり、ブラザレン教会の中で分裂が起こったのだ。

教会の半分はヒットラーの法令を受諾し、残りの半分はそれを拒んだ。

こうしてヒットラーの命に屈した側の教会員たちはもちろん、その後ずっと楽な行程を歩むことができた。

しかし、リベラル諸団体と組織的に合併する中で、次第に、彼ら独自の教理的鋭利さや霊的生活は衰え、弱体化していった。

その一方、合併をこばんだ人々は霊的な強さを保ち続けたが、結果として、非常に多くの人がドイツの強制収容所で命を落とすことになったのだ。

☆☆

こうして両者の間に深刻な感情的軋轢が生じた。

やがて戦争が終わり、彼らは再び顔を合わせることになった。彼らは同じ教理を信じ、一世代以上に渡り、共に働いてきたのだ。

さあ、これからどうなるのだろう。

ある人は自分の父親が強制収容所で死んだことを今でも生々しく覚えており、その一方で、今目の前にいる人々は(ヒットラーの指示通りに合併の道を選んだゆえ)その間、安楽に暮らしていたことを知っているのである。

☆☆

その内に、兄弟たちはこのままの状態ではいけないと痛感するようになった。

そこでついに二つのグループの長老たちは一か所に集まり、修養会を開くことにしたのである。

この話をしてくれた人に私は尋ねた。「それであなたがたは何をしたのですか?」

すると彼は答えた。「ええ、私たちは一堂に会し、それから数日の間、それぞれが自分自身の心を調べることにしたのです。」

すると実際、この期間に、それぞれの心の内に潜んでいたさまざまな感情が深く、深く取り扱われたのだ。

「私の父は強制収容所に送られ、母は無理やり引き離されました。」――こういった事は感情の中にあるもののごく一部にすぎなかった。それらは実に、人間の諸感情の深い源泉にまで到達していったのである。

しかし彼らはここにおいて、キリストの掟を理解し、数日の間、各人がただひたすら自分の心と向き合い、自分自身の失敗や過ち、そしてキリストの掟について黙想したのである。

その後、再び彼らは一堂に会した。


私は彼に訊ねた。「それでどうなりましたか?」

彼は言った。「私たちはその時点ですでに一つとされていたのです。」


これこそまさにイエスが語っておられることではないだろうか。

そう、御父はたしかに御子を遣わされたのである!


分かれても一つ


諸事情により、もはや共に働くことのできなくなった二つの新生信者たちのグループが、お互いにひどい言葉をぶつけ合うことなく平和的に分離する――私は長年、そのことを望んできた。

また二つの群れが、組織的一致を続けていくことがもはや不可能となったことを悟った後もなお、互いの間に存在する愛をこの世に示し続けていく姿を私は待望してきた。

ここで話している原則は普遍的かつ、どの時代・場所においても適用されうるものである。

それでは二番目の事例を話そう。――今回の例は、同じ原則の異なる実践ヴァージョンである。

☆☆

最近、アメリカ中西部の大都市にある教会で、ある問題が生じた。

「現代的な」人々がその教会には多く通っていたのだが、そこの牧師は次第に、教会内に存在する二つのグループを同時に牧会していくことに困難を覚え始めたのだ。

「他の牧会者ならできるかもしれないが、私個人には、――長髪の人々や彼らが連れてくる『個性的な』人々と同時に、教会近郊に住む人々に仕えていくことはできない」と彼は感じた。

その後も長い間、共に働くことができるよう試行錯誤をつづけた末についに、長老たちは集まり、教会を二つにする決断を下したのである。

そして彼らは「私たちが分離するのは、教理が異なるからではなく、あくまで教会運営の実際性(a matter of practicability)を考慮した結果そうするのです」ということを明確にしたのだ。

旧来の群れの一人が新しい群れに行き、こうして彼らは秩序ある移行が完了するまで、その間ずっと共に働いたのであった。

こうして彼らは二つの教会となったが、その後も意識して、互いに対する愛を実践しようとしているのである。

ここに私たちは、組織的な一致なくして、尚且つ真実なる愛と一致を見るのだ。

そしてそれはこの世がはっきりと見て取れるものである。

そう、御父はたしかに御子を遣わされたのだ!


ただ一つのまことの標(しるし)


ここで再び、クリスチャンの標について実に明瞭に指し示している聖書箇所を読んでみよう。

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。

ヨハネ13:34-35



父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。

ヨハネ17:21



それでは以上のことから何が結論づけられるのだろう。

そう、良きサマリヤ人が傷を負った男を愛した如く、クリスチャンとしての私たちも、すべての人を隣人として愛すよう召されているのだ。

そして二番目に、私たちはこの世にはっきりと分かる形で、真のクリスチャンである兄弟たちを皆、愛さなければならない。

これは自分たちの間に――事の大小にかかわらず――相違点や食い違いがある時においても、それでも相手を愛し続けていくことを意味する。

たといそれが私たちに何らかの犠牲を伴わせるものであったとしても、そして、そのために自分が非常な精神的葛藤の下におかれているその時でさえも――尚、相手の兄弟たちを愛し続けていくことを意味する。

そしてこの世が見ることのできる形で彼らを愛し続けていくのである。

要約しよう。私たちは神の神聖さと神の愛、この両方を実践し、示していかねばならないのだ。

なぜなら、これなしには私たちは御霊を悲しませてしまうからである。

愛――そしてそれを立証する一致――は、この世の前で付着するよう、キリストがクリスチャンにお与えになった標(しるし)である。

そしてただこの標によってのみ、この世は、「クリスチャン」という人たちが本当にクリスチャンであり、イエスが御父から遣わされた方であることを知るのだ。



ー完―




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『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(9)

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