宣教地での学びは人生の学びです。

どうしても本の理論だけに傾きがちな私を修正・訓練するために、主は次から次に奇想天外(!)で愛すべき魂を私の周りに送ってくださいました。

そして彼らと共に生きることを通し、私は、一個の人間の信じられないほどのユニーク性、価値を知ると共に、それぞれの魂のたどる霊的旅路、各人に対する主のお取り扱いの無比性に言いようのない感動を覚えてきました。

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イスラム教の背景を持つ人々との生活レベルでの接触は、その中でも最も尊い気づきや学びの場となっています。

彼らの特異な言動は、「こうだから、こうあるべきなの」という私の固定観念や律儀さを無遠慮にうち壊し、(時にいらだたせ)、、でもそうした先に、全く思いがけず美しい渓谷を見い出すこともしばしばありました。

Iという年若いホームレスの難民がしばらくうちに寝泊まりしていたことがありました。

彼は保守的な都市の中の、これまた保守的な家庭で生まれ育った、保守的なイスラム青年でした。

倫理的にも品行方正で、礼儀正しく、年長者を敬い、神を畏れ、ナマーズ(イスラム教の日々の祈祷)を唱えることに関しても「この家でナマーズを捧げてもよろしいでしょうか?」と私たちに恭しく許可を求めてくるような謙遜な若者でした。

アテネの猛暑とも合わせ、飲まず食わずのラマザン(断食)はさぞかし大変だったろうと思いますが、それでもI君は一人、それを律儀に遵守していました。

でも夕食前には、「えーと、僕にとってこれはエフタール(iftar:断食明けの食事)なので、他の人たちよりも大盛りでお願いします!」とちゃっかり台所にお願いに来るなど、なかなかかわいらしい様子も見せていました。

しかし告白しますが、私は心の中で「彼のような人は一番救われにくいだろう。クリスチャンに囲まれて生活しながらここまで堅くイスラムを貫き通せる人の心に福音は届きにくいだろう」と推測していました。

主よ、それぞれの魂にユニークに働くあなたのみわざを限定し、狭い判断をくだしていた私の不信仰をおゆるしください。

☆☆

ある日、台所で夕食を作っていると、壁を隔てて、マグリーブの祈り(日没の祈祷)を唱えるI君の声が聞こえてきました。

しかしアラビア語での定型の祈祷が終わった後、彼はそこから引き続き、自分の言葉でなにかを切実に祈りはじめたのです。

もちろん、イスラム教徒もオプションとしてそういう自由な祈りをすることもありますが、その時のI君のそれは、なんというか非常に「クリスチャン的」なものを感じさせる祈りでした。

私はメッカの方向を向きミニ絨毯の上に跪いているこの青年の魂に、今まさに聖霊が臨んでいることを感じ、生きて働かれる神の御働きに心がうち震えました。

その後、I君は北ヨーロッパに渡りました。

そしてその地でイエス・キリストに信仰を持ち、洗礼を受けたという知らせを受けました。

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またRさんがイエス・キリストに信仰告白した時のことも忘れられません。

この方は告白前に、自分をキリストに導いてくれた兄弟に言いました。

「確かにこれまでの私の道は間違っていました。でもそんな中でも神は私に憐れみ深くありました。ですから私は最後にもう一度だけナマーズの祈祷を唱え、これまで私の祈りに耳を傾けてくださった神に感謝と別れを告げたいのです。」

そしてRさんはおごそかに水浄し、メッカの方向に跪き、起き上がると今度は、全身全霊でイエス・キリストに生涯を明け渡す祈りをしました。

現在、Rさんは炎の伝道者となり北ヨーロッパで用いられています。

また十年前、イラクで新約聖書を渡されたFさんは、怒り、それをごみ箱に放り投げました。

その彼も今や、キリスト教会で人々に福音を伝え、美しい信仰詩を書き、涙を流しながら主を賛美しています。

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生命の誕生と同じで、人の魂の救いも人知を越えた神のみわざであり神秘だと思います。

救いは主のものです。Salvation belongeth unto the LORD.

詩篇3:8a



だからこそ、主は人間の作り出す伝道プログラムや「救いのステップ」といった定式、もしくは個人的な偏見に基づく諸判断を時に大きくくつがえし、それを通して、一人一人の魂の救いがただ主ご自身にのみ属していることを明示してくださるのだと思います。

主はくりかえし、くりかえし、肉の視点で魂を判断することの愚を私に教えてくださっています。またたとい自分の霊的「常識」から外れているようにみえる現象を目の前にしても、先走ったさばきをすることのないよう教えられています。

また主は、魂がどれほどの暗闇や絶望の底にいようとも、すべてを照らすまことの光であるイエス・キリストはその魂の小部屋をも照らし出すことがおできになる――そのことを私に示してくださっています。

そして、そこから上よりの希望をいただいています。

上よりの希望で心が満たされるとき、たといどんなにわずかなきざしであっても、私たちはまわりにいる人々すべての中に御働きの萌芽をみ、失望することなくその人をいたわり、祈りつづけることができると思います。

キリスト教会の迫害者であったサウロを救いパウロとしてくださった主が、今日も永遠の御霊を通し、それと同じみわざを現代のサウロたちの魂になしてくださっていることを覚え、全能の主なる神をほめたたえます。

また宣教が非常に困難だといわれている日本の地においても、同じ御霊がうめきをもって執り成し、一人また一人と魂が主の元に立ち返っていることを覚え、感謝します。

なかなか目に見える結果がみえず、うちひしがれ元気を失っている兄弟姉妹がいましたら、私はその方のために祈ります。

主よどうか、その方が今必要としているものをその方の心に注いでください。

その方の蒔いたみことばの種、愛の労苦の種が、けっしてむなしく地に落ちることなく、やがて芽を出し、青々とした葉を天に伸ばすようになることをその方の心に語り励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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人生をかけた召命への道――次世代の宣教師のみなさんへの応援メッセージ(1)

『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(最終回)