愛する兄弟姉妹のみなさん、お久しぶりです。

最後に投稿したのは春の時期でしたのに、今はもう辺り一面、緑の輝きにあふれる初夏の季節となりました。その間、いかがお過ごしでしたか?お変わりはありませんか。

さて、私たちは、ギリシャで信仰を持ち、その後、北ヨーロッパ各地に散っていった兄弟姉妹ひとりひとりの元を訪ね、キャラバン隊のように何千キロと廻りめぐりながら、村々、町々を移動していました。

良い地に蒔かれ、今や60倍、100倍の実を結んでいる友、病や家庭問題に苦しむ友、この世の誘惑にひきずられそうになっている友、懸命に試練を乗り越えようとしている友、プロテスタント教会のさまざまな教えに混乱している友、モスレムの隣人たちに昼となく夜となく福音を伝えている友など、、

さまざまな人生の局面に置かれている兄弟姉妹と再会できたことは、私にとって何よりの喜びでした。


ベルギーでの出会い


ベルギーやドイツなど、各地で真実に主を愛し仕えているすばらしい信仰者たちとの出会いも主は私たちに与えてくださいました。

ブリュッセルのカトリック大聖堂。こういったいのちのない魂の抜け殻のような「建物」の前で多くの観光客が記念写真を撮っていました。がっくりとうちひしがれ、私は広場の真ん中で祈りました。

「おお主よ、あなたはどこにおられますか?背教が進み、急速にイスラム化しつつあるこの地において、どうか生けるあなたの教会を見させてください。」

すると、その日のうちに、主は、燃えるような純粋な信仰を持つ一人の若いベルギー人姉妹の元に私たちを導いてくださったのです。そして彼女を激励するよう主は私たちの口に言葉を与えてくださいました。


主を愛するクルド人の少女との出会い


またあるクルド人の難民家庭で、小学校5年生の女の子に出会いました。

その子は同世代のどの子とも「違ったスピリット」を宿しており――霊的に決して健全とは言えない家庭環境の中で――こども用聖書を一心に読み、イエス様のことや聖書のことについても私に多くの質問をしてきました。そして疑問点や感想などを自作のバイブル・ノートにたんねんに記録していました。


アフガン人の兄弟姉妹


また、ある難民キャンプでは、迫害のためにカブールから逃げてきたアフガン人の家族と共に賛美をし、救いの証をきき、互いに祈り合う時を持つ恵みにあずかりました。

彼らはイエス様を信じた時以来、家族・親戚から絶縁され、難民キャンプ内でも同国人たちから村八分にされ、不浄人扱いされていました。読み書きのほとんどできない彼らのシンプルで一途な信仰に私は感動しました。

「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」(ルカ18:17)というイエスさまの御言葉がまことに真であることを改めて思い知らされました。


無神論者Fさんとの対話


R兄の難民施設を訪れた時、そこに一人の若い大学研究者(亡命者)がいて、私たちとの対話を求めてこられました。

この人(Fさん)は、大学でイスラム神学を専攻し(B.A)、博士課程では西洋哲学を修め、その後、つい最近まで母国の大学でハイデッガーやフッサールの現象学を教えていたそうです。

しかし、院生時代にイスラム教を棄教し、無神論者になり、それを公言し始めたことから大学のイスラム当局ににらまれるところとなり、ついに身の危険が迫り、職も地位も何もかも捨てて亡命してきたそうです。

(実際、何千何万というFさんのような、いわゆる「自由思想家」が投獄され、ひどい拷問を受けた末に処刑されてきました。神政政治のなされているこの国で「神はいない」と意見を表明することは重大な犯罪行為とされているからです。)

ですから、この国で無神論者として生きることは、一般の日本人が「えーと、うちは無宗教ですから、、」と言うのとは意味も深刻さも全く違います。こういう人たちは、まさに命がけで「神はいない」という「信仰」を表明し、そこに彼らなりの論理の一貫性と真理を見いだそうとしているのです。

Fさんはまた、アウグスティヌスやトマス・アクィナスの「正義の戦争論」(Just war theory)からブッシュ政権を支持していた福音右派の神学に至るまで熟知しておられ、「そのようなキリスト教神学をバックボーンとしているあなたがたが、『イスラム教は暴力の宗教だ』と批判するのはお門違いではありませんか?

キリスト教の歴史を見てください。まさしく血と暴力に染まった歴史ではありませんか。しかしこう私が言うと、クリスチャンたちは『いや、十字軍を起こした人たちなどは真のクリスチャンではないのです』と反論します。

一方、イスラム教徒たちも、過激派のテロ行為のことなどを批判されると、『いや、あの人たちは真のムスリムではないのです。』と反論してきます。結局のところ、どちらも五十歩百歩です。」

私たちはこの点における彼のキリスト教批判を正しいと認めつつ、これまで歴史の表舞台にこそ登場してこなかったけれども、イエス様の山上の垂訓に文字通り従おうとしてきた一群のキリスト者の群れが、この2000年余り、常に存在してきたもう一つの史実について彼に例証することができました。

こうして私たちは夜を徹して話し合いを続けました。この人は、無神論者を公言しながら、その実、まことに真摯なる真理の探究者であり、求道者でした。

彼の言葉からは「神よ、もしあなたが存在するなら、それを私に示してください」という魂の切なるうめきが痛いほど感じられました。Fさんとの真剣な対話を通して私が教えられたのは、クリスチャンを自称しながら、実際には神がいないかのように振る舞い偽善の内に生きることは、場合によっては無神論者以上に罪深いあり方なのかもしれない、ということでした。

「スーフィーたちの中には、イエス・キリストを髣髴させるような人物が実際にいました。しかし私はこれまで本物のキリスト教徒に出会ったことはありません。」という彼の言葉も私の心を刺しました。

内在するキリストの光が自分の不信仰や悔い改めていない罪によって未だに塞がれていることが示されたからです。主よ、どうか光の中を歩ませてください。


神の国はここにある


ある時には梯子を上って屋根裏部屋に寝たり、小さな一部屋に難民家族とぎゅうぎゅう詰めで雑魚寝をしたりしました。

それぞれが皆個室とパソコンを持ち、快適ではあっても心がばらばらになりがちな現代社会にあって、こういう風に私たちを迎えてくれる貧しい兄弟姉妹たちのもてなし(hospitality)と愛は、私にとって何よりの精神の滋養、心の糧となりました。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから(ルカ6:20)。



現代は効率と実用主義万能の時代です。

各種ミニストリ―もせわしく活動に従事し、洗礼者数をアップさせるべくさまざまな方法論が導入されています。

一方、難民の側でも、「バハーイー教徒の会員証をゲットする方が難民認定されやすいのか、それともキリスト教会のパステスマ証明書をゲットする方が申請には有利に働くのだろうか?」といった、耳を塞ぎたくなるような打算的な会話もしばし聞こえてきます。


そうです、主イエス。
私たちが唯一恐れなければならないのは、この世です。


もし私の感覚が外側の事がらにかき立てられるのなら、

わが霊は、すぐに
痛んでしまいます。


今、私はあなたの元に戻ります。
わが小さな庵の中に。


そうすれば、全き静寂の内に、
私は汝の平安を味わうでしょう。


G.Tersteegen, In Jesus alone will you find peace
私訳



テロの脅威も、爆発的な洗礼者「数」の上昇も、「センセーショナル」な宣教レポートも、いずれも外側に属することがらです。それらは表面にしばらく現われては消えていくさざ波に過ぎません。

それらは私たちを必要以上におびえさせたり、また逆に私たちの肉を有頂天にさせたりしますが、いずれも一時的なものです。

本質的なものは内にあり、キリストの「内」にあることを常に覚えていたいです。

あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます(詩145:13)。



やがて「木、草、わら」(1コリ3:12)が火によって焼かれる日が来ることを聖書は明らかにしています。どうか真実なものだけが残りますように。

主の教会を汚すいっさいの不純物やまがいものが聖なる主の御力によって淘汰されていきますように。重苦しく厚い雲を突きぬけ、輝かしい主の栄光の一条の光を私たちが垣間見ることができますように。

主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます(詩27:8b)。




わたしが求めているのはただあなただけです。
あなたは今日、ひどく辱められています。

おお主よ、あなたの御傍にとどまり続ける者とされたいです。

苦しみの中にあってもあなたに忠実であることを通し、
あなたに対するわが愛を証しさせてください。アーメン。


-M.Martyria
私訳





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