J.Krüger, Intolerance: Navigating the storm of end time humanismより一部抜粋


現代に対する警告のリストは、ありとあらゆるイシューを網羅しており、その中のあるものは識別が容易にできます。

しかしながら、もっとも深刻な危険はそう簡単に察知されません。それは巧妙に、一見肯定的にみえるパッケージにくるまれて私たちの元に届けられるのです。

さあ、私たちはこの惑わしの手に陥ってしまうのでしょうか。

☆☆

聖書は誤りのないほどはっきりと、罪というのは――悔い改め、赦されない限り――裁きと死をもたらす結果になると言っています。

ソドムとゴモラの破滅はその一例にすぎません。たしかに神はあわれみ深く、情け深いお方ですが、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)。

私たちは自分たちの蒔いたものを刈り取ることになります。文明世界の栄枯盛衰の歴史もその事実を物語っています。

もしも私たちの蒔く種が何百万という罪なき者の死をもたらすのなら、私たちはやがて何百万もの人々ゆえの死を刈り取ることになるでしょう。これは特に、中絶に当てはまります。それは辛くむごい収穫となるでしょう。

☆☆

隠された危険はここにあります。つまり、クリスチャンにとってさえ、もはやそれらのつながりを見ることができなくなっているのです。

「調和と一致」を求める声があまりに巨大なものとなっているため、懲罰に関することはなんであれ、「偏狭かつ過酷」であり、「愛に欠け、人を裁く態度に満ちている」とみなされます。

「隣人を愛しなさい」という私たちクリスチャンの責務は、私たちの考えの中心を占めています(マタイ22:37-39)。

しかしながら、イエスが私たちに与えてくださった第一にして最も重要な掟は、私たちの愛に特定の秩序を設けます。

つまり、私たちはまず第一に神を愛しなければならないのであり、そうして後、隣人を愛しなさいとされているのです。

これにはしかるべき理由があります。というのも、私たちが第一に神を愛する時、――そうした時のみ――私たちは真に隣人を愛することができるからです。

☆☆

私たちの愛の容量が神の内にしっかり据えられていない限り、他の人々に対する私たちの愛はゆがんだものになっていきます。

本当に気づかないうちに、私たちは、神の観点ではなく人間の偏った見方によって、誤った対岸へと流されていってしまうのです。

人間の弱さ(weakness)に同情することと、人間の罪深さ(wickedness)に同情することはイコールではありません。

両者の違いは、例えば、70年代に、人気ミュージカルが私たちの同情を――イエスを犠牲にして――ユダの方に集めようとした時に浮き彫りにされました。


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ブロードウェー・ミュージカル 「ジーザス・クライスト・スーパースター」


新しい潮流は、「さあ、悪に同情しようではないか?」です。

今日信仰者であってさえも、罪、懲罰、裁きといった観念を受け入れられない人が増えてきています。「かすかな細い声」に先立つ激しい大風、地震、火(1列19:11-12)という主の啓示はもはや私たちの考え方にフィットしないのです。

そうです、今日の私たち流の考えによれば、神の憐れみというのは自動的に神の聖さや義を埋め合わせるものなのです。


憎悪がゆるされるところでは


こうした私たちの態度は、今日、深く根を下ろした「キリスト教ヒューマニズム」によって大部分、決定されています。

基本的人間の良識というものに対する信念と共に、「寛容」は、私たちの識別力を曇らせています。意識しないままに、私たちの価値観は変わってきているのです。

それではそこからの救済策はどこにあるのでしょう。どうすれば罪に関する健全な感覚を再び取り戻すことができるのでしょうか。

ここに助けになる短く、シンプルな祈りがあります。「神様、何が罪であるかを私に示してください!」です。この祈りを心から捧げてみてください。神様はすぐにあなたのその祈りに答えてくださるはずです。

☆☆

神は罪びとを愛しておられますー主は私たちを熱情的に愛しておられるのです―。しかしそれと同時に、神は罪を熱情的に憎んでおられます。

だからこそ、神はこういった罪からの出口を私たちに備えてくださったのです。そうです、イエスがカルバリーでご自身の血潮を流され、究極的な代価を払ってくださったのです。

これによって主がどれほど私たちを愛しておられるのかが分かります!しかしそれと同時にわかるのが、神がどれほど罪を深刻に扱っておられるか、そしてどれほど罪を憎んでおられるかということです。

神の敵はどれだけ罪が深刻であるかを知っています。だからこそ、敵はそれを「何でもないものであるかのように」軽くあしらうのです。

近年のサタンの戦略は、――寛容と連帯という、ますます増え拡がるこの領域を含め――自らを人類のベストフレンドであるかのように演出してみせることです。

そして私たちクリスチャンは、サタンの恰好のターゲットなのです。

しかも現在私たちは、罪をたんなる神学的な観念ぐらいにしかとらなくなっているため、ますますソフトな標目になってきています。実際、私たちは譲歩に譲歩を重ね、こうして罪と「友好協定」を結ぶ結果に陥っています。

☆☆

こういった態度が、神に対する私たちの愛を減少させる結果になっていることに、はたして私たちは気づいているでしょうか。

私たちはもはや日々、救い主であるイエスの元に来る必要を感じなくなっています。そして赦しが私たちの愛を燃え立たせることももはやなくなっています。

こうして次第に私たちは罪に対する意識をことごとく失っていきます。

それがいかに自分を神から切り離すものであるか、どれほど深く主の心を悲しませるものであるか、もはや感じることができなくなっているのです。

私たちは主が憎んでおられるものを憎まなくなりつつあります。

そしてこれと並行して、現代社会には、新しいタブーが敷かれるようになりました。「罪」という観念自体が、寛容の名の下で、削り取られていっているのです。

罪を罪として名指しで呼ぶことは、反差別の諸法律に対する違反行為とみなされ、起訴・告発もまぬがれない状況にさえあります。

☆☆

私たちの社会、教会、そして人生の中で、最も甚大にして致命的な欠陥は、罪――これです。

罪がもたらすダメージは癌のように広がり、私たちと神との関係を傷つけ、破壊していきます。

しかし神との関係を失っていくことで、結局、私たちは主の与えてくださった人間としての尊厳をも失っていくのであり、私たちは消費財のレベルにまで落ち込んでいきます。

こうして、ありとあらゆる濫用・虐待への戸が大きく開かれることになります。家族や人間関係はバラバラになり、社会的・経済的構造の破たんは不可避なものとなるでしょう。

「罪は国民をはずかしめる」(箴14:34)。そしてこのはずかしめを認可しただけでなく、それを望み、増進させたのは他ならぬ私たちなのです。

☆☆

イエスは罪に対して妥協のない態度をとるよう言っておられます。

もし、右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

マタイ5:29-30



主がこのように仰せられたのは、私たちが自分たちを甘やかし、罪に対して手立てを打つことを拒むなら、何が起こるかということを私たちに理解させるためなのです。これはall or nothing、いのちか死かの問題です。

ゲヘナ(地獄)についてのイエスの警告が現在、ほぼ普遍的に無視され、軽く扱われていることで、ゲヘナは勝利をおさめています。

私たちはどんな犠牲を払ってでも神の側につこうと望んでいるでしょうか。もしそうなら、それは代価を伴う決断となるでしょう。

最近では、聖書には血みどろの戦争や、暴力、性的虐待、刑罰の記述が含まれているという理由でこの書を貶めようという動きがみられます。

特に、十字架刑は、暴力称賛とみなされ、18歳以下の若者に危害を与える可能性があるとみなされているのです。

嵐は吹き荒れています。

しかし、その名称自体は、いたって無害なものであるかのように聞こえます。――そう、それがヒューマニズムなのです。






朝にささげる祈り(Morning dedication)ーピューリタンの祈り

深み―ピューリタンの祈り