昨日の記事「私がこのブログの中で大切にしていること、目標、そして夢。」を読んだある読者の方が今朝、私にコメントを送ってくださいました。

自分にとって、とても為になるメッセージでしたので、この方の了承を得た上で、その一部をみなさんにご紹介したいと思います。

率直な分かち合いをありがとうございます。私自身については、自分に全く神学的背景がない事もあり、神学や聖書解釈のディベートの場にいたいとは正直あまり思いません。

ディベートの場にしばしば存在する勝ち負けや優劣を決めようとする雰囲気を好まないという理由もあります。

ある神学者が別の神学者を論破すれば、それはある神学や解釈が別のそれに「勝利した」という事になるのでしょうか?

ただこれは私個人の、白黒をつけようとする欧米式ディベートへの忌避感から来ているのかも知れません。

どちらかと言えば、その人の神学ではなく、その人の心を聞きたいという思いがあります。また分からない事は「分からない」と率直に言える場にいたいと願います。

☆☆

欧米の教会に今もなお存在する従来の寛容と、率直に互いの意見を表明し得る自由な雰囲気は素晴らしいと思います。

また神学やトレンドを通じて「異なるまやかし」が教会に持ち込まれないように、見張り人のような役割を託された方もきっとおられるでしょう。

こうした方々の真摯なあり方や、学びそれ自体を否定するつもりは毛頭ありませんし、ディベートの場も立場こそ違えど、主を愛する者同士の素晴らしい出会いの場なのかも知れません。

ただ、私にもし様々な背景を持つクリスチャンの方々と出会う機会があったとしたら、議論ではなく証を聞かせて頂きたいです。

人がイエス・キリストに出会い、神様を信じる者とされる。これ以上の奇跡はないと思います。

様々な背景を持ち、異なる神学や解釈を持つ信仰者から、なおも同じ主に出会い、同じ主の命に与っている事実を聞くことが出来たとしたら、本当に幸いです。

どの教会・どの神学・どの信仰者も完璧ではありません。主の事柄は主によらなければ理解出来ないと感じます。

でも、これは私たちがいつまでも謙虚に神様を求め続け、互いを必要とし続ける為の恵みではないでしょうか。



真理の前にへりくだることの大切さ


いただいたこのメッセージから私が学んだことは、聖書の解釈や教えについて私たちが話し合ったり、ディスカッションする際に、各自、どのような心の姿勢でその場にのぞむのかがとても大切だということです。

主の言葉に畏れおののき(ye that tremble at his word、イザヤ66:5参)、真理の前にへりくだる神のしもべたちが話し合いや議論をするなら、その場にはある荘厳で聖いなにかが感じられ、私たちはそこから啓発、知恵、恵みなどを受けることができると思います。

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。
主は耳を傾けて、これを聞かれた。

マラキ3:16a



しかしひとたび自分の解釈や意見が、「自我」と一体化するなら、その時、肉は己の正しさを主張しようと頭をもたげます。そしてそこからさまざまな肉の醜さが露呈し、本人を、そして周りの人を傷つけていきます。

冒頭の方がおっしゃっていた「ディベートの場にしばしば存在する勝ち負けや優劣を決めようとする雰囲気」というのもまた、そういった肉の顕れの一つだと思います。

どうか私たちの間に常に主に対する真の畏れと、偽りのない兄弟愛が保たれますように。

すべてが主の栄光と、お互いの建て上げのために語られ、なされますように。


おわりに


私の信仰がもう少し成長したなら、今自分の大切にしている価値観、目標、夢にもやがて変化が訪れるかもしれません。

そしてその時、私は、昨晩書いたあの記事を引用し、「以前、私はこう考えていたけど、今はこう考えるように変えられました」と証することになるかもしれません。

私は神学に囚われているのかもしれません。分かりません。

でもそういう自分を忍耐し、支えてくださる兄弟姉妹の存在は私にとって本当に大きいです。そこに私は自分を見捨てない神様の愛を感じます。

どうかこのブログが主の愛のうちに続けられますように。

そして訪れてくださる兄弟姉妹おひとりおひとりに恵みが注がれますように。



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一つのまなざし

私がこのブログの中で大切にしていること、目標、そして夢。

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