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Elisabeth Elliot, Let Me Be A Woman, Chapter 19, Is Submission Stifling?より抜粋


恭順な女性とは、「思慮もなく、ただはいはいと従うことしかできない種類の人たち」なのでしょうか。

女性解放論者といわれる人々によってそのような批判が出されていますが、そういった批判は誤ったアンチテーゼを作り出す結果を生んでいます。

これは旧来の政治的戦法であり、相手にそのようなレッテルを貼ることにより一時的に自らの陣地を強化できたように思えるのですが、究極的には、それは自らを破壊していくものとなります。

☆☆

折しも先日、この混沌状態を如実に表すような一通の手紙が私の元に届きました。

少し前に、「解放についてのクリスチャンの見解」と題し、娘の大学で(特別優等生に選ばれた学生たちを対象に)講演を頼まれたのです。

その際に、当日、その場にいた卒業生の一人が、私に対する抗議文を大学側に提出してこられ、そのコピーが大学事務局から私の方に転送されてきたのです。

その抗議文には次のようなことが書かれていました。

「大学を最優秀の成績で卒業したばかりの女性たちに向かい、

『あなたがたの最大の満たしは、結婚という枠組みの中で一人の男性に恭順に従うことにあります。』

と言ってのける講演者を――こんなご時勢に――招待したとはまったく驚くべきことです。

一世紀前でも、こんな発言は言語道断だったのではないかと思います!

もしも私たち女子学生の主たる召命が母親業なのだとしたら、なぜこの大学は女性に高等教育など施しているのでしょうか?

キリスト教界にいる知的な女性たちは、ただでさえ困難で傷の多い所に置かれているのです。

彼女たちに必要なのはむしろ励ましであって、息苦しい締め付けではありません。

私は個人的に彼女(エリザベス・エリオット女史)の成した業績に感銘を受けていました。

しかし彼女が言っているメッセージというかレトリックがこれほどまでに実際と矛盾しているのを耳にすると、混乱を覚えます。

少なくとも私たちのようにこの道を歩んできた者にとって、彼女のような存在は「矛盾を抱えた模範者(role model)」と言わざるをえません。

本当に、今まさにこの道を闊歩しようとしている私たち卒業生にとって、彼女は深刻に混乱をもたらす存在です。」



このレターの書き手は、抗議の印として、本年度の大学寄付金を取りやめ、さらに、「大学側の講演者の選択は、『とりわけ不適切であった』」とつけ加えていました。

☆☆

私は今まで一度も、自分が「矛盾を抱えた模範者」だと思ったことはありませんでした。

いや、自分が誰かの模範的存在になっていると考えたことすらなかったと言えましょう。

私のレトリックは自分のやってきた事と矛盾しているのでしょうか。

私が言ってきたことは、「キリスト教界にいる知的な女性たち」を息苦しくさせ、締め付けるような内容だったのでしょうか。

☆☆

私はこういった批判について熟考してみました。

もしも「母親というのは本を書いたりすべきでない」のなら、たしかに私は「矛盾を抱えた模範者」なのかもしれません。

もしくは「恭順な妻が大学の講堂で話をするよう求められるはずがない」し、「大卒の女性が家の仕事を好むなどというのありえない」のなら、私は確かに「矛盾を抱えた模範者」でしょう。

☆☆

しかし、自分のなした「業績」と矛盾しているのは、はたして私のレトリックなのでしょうか。

それともこの女性自身のレトリックなのでしょうか。(彼女は対等主義的な両性の平等について著述・講演活動を行なっています。)

私が、「あなたがたの最大の満たしは、結婚という枠組みの中で一人の男性に恭順に従うことにあります。」という時、もちろん、対象として述べているのは、あくまで神様から結婚の賜物をいただいている女性たちのことです。

そして彼女の最大の満たしは、――その召命に従順である――その行為の中に見いだされるものです。

☆☆

しかしこれは、神様のくださる他の賜物を否定したり、軽んじたりすることではありません。

私は宣教師として、また著述家としての召命を受けています。

しかし何物であれ、「女性というのが本来、男性のために造られた」という根源的な事実に対する認識および任務に匹敵するものはないでしょう。

それにこれは自分のこしらえた思想ではありません。――これら全ては聖書から導き出されたものです!

☆☆

私が言うこれらのメッセージを聞いて「息苦しさを覚え、締め付けられるように感じる」、「知的な」女性たちは、聖書の意味する自由について、まだ理解することができていないのかもしれません。

神の奉仕は、私たちの祈祷書のいう通り、「全き自由」です。

「母親たちには大学教育は必要ない」という先ほどの女性の見解にとまどいを覚えています。

彼女は問うています。「それなら、この大学は何のために女性に高等教育を授けているのですか?」と。

もちろん、それは、神様が私たちに与えてくださった賜物を引き出すdraw out)〔educateの語源:ラテン語educatus.「e-(外へ)+-duc(導く)+-ate=能力を導き出すようにする」〕ことにあるのです。


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娘のヴァレリーへ

「もし、あなたがこういった光の下に、女性であること(womanhood)の意味を理解するなら、あなたは命の満たしを体験するようになるでしょう。

女性であることに対する神の召命に耳を傾けてごらんなさい。

その使命に従順になりなさい。

そして自らの内にあるエネルギーを奉仕に注ぎ込みなさい。

あなたに任せられた奉仕は、夫に対するもの、あるいは夫や家族に仕えることを通し、世界に仕えていくような種類のものかもしれません。

あるいは、神の摂理の下、仕えるべき召命のために、あなたは夫や家族を持たず、独身としてとどまらなければならないのかもしれません。

その場合も、あなたは命の満たし、自由の満たし、そして喜びの満たしを体験していくでしょう。」

Chapter49, Love Means a Crossより抄訳






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反省に導かれて

クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?

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