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主日は、天国の型でもあります。

信仰者がペンや機(はた)をいったん脇に置き、

この世の諸事から心を離し、神の家に向かう――。

それは、復活の朝のようであり、苦難を抜け出、

神と小羊の臨在の中に入れられる日のようです。

☆☆

彼がみことばを聞き、彼の魂を導き、養う牧者の声に

耳を傾ける時、

それは彼に、御座の中央におられる神の小羊が

彼を養い、

生けるいのちの泉の元に伴ってくださる

かの日を髣髴させます。

☆☆

また、詩篇歌や讃美をささげる時、

それは彼に、けっして解散することのない会衆の集まりの中で、

彼の手みずからが神のハープを奏でる

かの日を思い起こさせるのです。

☆☆

家路につくと、彼は奥まった小部屋に退き、

主と親しく交わります。

もしくは、イサクのように、住まいの近くにある静かな場所に行き、

そこで主と語り合います。

それは「彼を、わたしの神の聖所の柱としよう。

彼はもはや決して外に出て行くことはない」(黙3:12)―

かの日を彼に思い出させます。

だから私たちは主日を愛しています。

そうです、だからこそ、私たちは安息日を

『喜びの日』と呼ぶのです(イザヤ58:13)。

☆☆

心ゆくまで主と親しく過ごした主日は、私たちにとって、

この地上における天国のようです。

だからこそ、私たちは主日を神のためだけに捧げたいと思っています。

公の場でも、プライベートな場でも、

―必要不可欠な仕事および愛のわざをすることを除き―、

私たちはこの日のすべてを

神への礼拝の内に過ごしたいと願っています。

そしてこの日、いつもよりも早く起き、

夜遅くまで起きていたいのです。

なぜなら、そうすれば、

神との時間を

最大限持つことができますから!



Robert Murray McCheyne, I Love the Lord's Day
抄訳


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