鉄は鉄によってとがれ、
人はその友によってとがれる。

箴言27:17



英語にConfrontという動詞があります。

「向かい合う、対面する、対決する、直面する」という意味です。

辞書で調べると、この語は、中世ラテン語confrontare(・・に対面して立つ)(*「con-(ともに、一緒に)+-front(ひたい、前面)=しっかりと顔を向ける」に由来すると書いてありました。

☆☆

主に感謝します。

なぜなら、主は、私の人生の中に、文字通りConfrontしてくれる信仰の友を送ってくださるからです。

もちろん、その対面は、時に痛みを伴います。

なぜなら、「鉄は鉄によってとがれ」(箴27:17)とあるように、「とがれる」過程において、自らの問題点や欠陥、責め、無知などが露わにされ、私たちはこわれやすく(vulnerable)、無防備な状態におかれるからです。

「真理への愛(Ⅱテサ2:10)を求める祈りは、まずあなた自身に適用されるものです。

『主よ、まず何よりも自身自身に対する真実を示してください。』これは痛いプロセスです。

しかしここを通り、私たちは神さまの心に近づいていきます。」



このように、ある老シスターが私に語ってくださいました。

信仰の友たちは、その全人格をもって、私に対面(confront)してくれます。

訓戒し、あるいは誤解されることを覚悟で、私に真実を語ろうと対峙してきます。

☆☆

孤高の哲学者マルティン・ブーバーは、『我と汝(Ich und Du)』という本の中で、「世界は人間のとる態度によって〈われーなんじ〉ないしは〈われーそれ〉の二つになる」と言っています。

前者の〈われーなんじ〉というのは、全人格的な呼びかけと出会いのことを指します。

それに対し、後者の〈われーそれ〉というのは、そのような人格的な「向き合い」なしの関係です。

そして現代文明の危機は、後者(〈われーそれ〉)の途方もない支配の結果である、とブーバーは指摘しています。

神様との交わり、また私たち信仰者同士の交わりにおいても、キリストにある生き生きとした〈われーなんじ〉の関係が、いつの間にか、機械的で表層的な〈われーそれ〉の関係に転落してしまっていることに、私はしばし気づき、愕然とすることがあります。

でも、そんな時、主は彗星のように、私に対面し全人格を持ってぶつかってきてくれる友を送ってくださいます。

〈われーそれ〉に暗く沈む世界にあって、それは何物にも代えがたい「光の時」です。

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

1ヨハネ1:7



☆☆

思えば、聖書の人物の多くもまた、神様とのconfrontationによって「とがれ」、倒れ、ひざまずき、そして御顔を仰ぎつつ、トマスのように「私の主。私の神」(ヨハネ20:28)と告白するよう、導かれていったのではないでしょうか。

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。

ルカ5:8



私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。

ダニエル10:9



「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」

私は遠慮しいしい適当に私をめでてくれる人のほめ言葉を聞くよりはむしろ、自分に本気でぶつかってきてくれる人の「研磨」により、大いに傷つけられたいです。

そしてそれが私の望んでいる信仰者との交わりです。そして友情です。



カルバリーの讃歌―ピューリタンの祈り

すべてを捨てて、まことの光を求める