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ある秋の静かな夕、奈良の都から程遠からぬ、古い、夢みるやうな村の雛(ひな)びた旅館であつた。

私は大学生の年若い一人の友と、もぎたての柿の実を味ひながら、話しに耽っていた。

窓の外には月が昇り、星が輝いて、空はあたかも山上の湖水の面のやうに紺碧と静寂さに澄み渡って見えた。

その日、私たちは、十哩(マイル)余り歩きまはり、絵のやうな建物や史蹟を訪ねたのであつた。

西の空が傾く夕陽に映え、紅から紫にと染められる頃、この村について、僅か数名の相客のいるこの家に入つた。

軽い夕食を済ませて、私たちは疲れを忘れた。

殊に凡てがいかにも静かで穏やかであつた。

風もなく、家に音もしなかつた。

静けさが天をすべ、平和が地に漲(みなぎ)った。

地上のことすべて善し、と見えたのであつた。

☆☆

その時、若い友が頭を挙げて、幾分、哀調を含めて言った。

「私には、想像し得る人生の最大の喜びは、人がその生涯の終わりに際し、自ら神の道に歩み来つたと意識し得ることにあると思はれます」と。

かく言ひつつ、友の目は耀き、その頬は熱した。

然し私は沈黙をつづけ、目を落とし、思いに沈む胸に腕を組んでいた。

遂に私は頭をもたげ、床を見つめる友に対して、次のやうに述べた。

☆☆

もし人がその生涯の終わりに、事実、神の道に歩み来つたと意識し得、またもし、それが可能であり、かつ驕りの念を伴はないとすれば、それは疑いなく、想像し得べき最大の幸福である。

然し、果たして、それは人間の能力の範囲内で、あり得ることであらうか?

誰人か、そのやうに高度の道徳的完成に到達し得よう?

どこにそんな人があらう?

私自身は、到底そこには到達しようと思へない。

私は朝に出でては、あちらに転び、夕に戻りつつ、こちらに倒れる。

私は目醒めた時に左右によろめくのみならず、眠れる間にも亦同じ。

夢の中にも、私は正しく歩み得ない。

「ああ、われ悩める人なるかな。此の死の体より我を救わん者は誰ぞ。」

☆☆

然しながら、私は主イエス・キリストに頼りて、神に感謝する。

それは、使徒パウロをその弱さの中に支へ、弱き時に彼を強くし、強く大なる者へと同じく、小さい弱者へも救の手を差しのべ給ふ神。

彼が、私にまでも慈愛深く、いつも必要な時に応ずる彼の援け(たすけ)を惜み給ふことなかったからである。

「わが足すべりぬといひしとき、主よ。なんぢの憐憫(あはれみ)われを支へ給へり」と書いた詩篇の筆者の経験と、文字通り同じ体験を私も持つ。

☆☆

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私が「人生の旅路なかばに立ち」、わが過去を顧み、踏み来つた経路を省み思ふとき、私は一匹の若い小馬であつたとしか自分を考へられない。

――ただひたすらに走ることのみをこれ望み、正しい道がどこにあるかに、全然盲目な小馬にすぎなかつた。

岩角多い路を越え、茨の藪(やぶ)をぬけ、或時は、繁茂する樹の葉をもれる僅かの日光が、おぼろに道をてらす大きな森にふみ迷い、小馬はただ、盲ら滅法に走つたのである。

雨の降る日も彼は止り得なかつた。

激しい嵐の日にも、彼はいやが上に狂気のやうにはげしく走つた。

然しある日、彼は荒涼たる嚝野(こうや)のただ中に、疲れ果てて死んだ様に倒れたのである。

その手足、胸、頭に至るまで打傷に蔽はれ、出血する傷口も少なくなかつた。

彼は来たりし方をふり返つて、進んで来た距離が僅かなものであることを知つた。

彼は前途をながめ、目標は遥けく、何年か前と同じく遥かに、目の届かぬことを知った。

しかも道は決して平坦でない。

この場所は、都会に遠く隔たり、寂寥であつた。

そこに彼は傷き倒れ、顧みる人もなかつた。

彼がこの悲惨の境地に気づいたとき、傷つける頬に、涙は滝のやうに流れた。

☆☆

然し、それにも拘らず、神の慈愛の手は、常に小馬の上にあつたのである。

彼の凡ての過誤と彷徨に拘はらず、彼は決して神の愛の守護から、はずれ落ちることはなかつた。

彼の被った傷そのものまで、実は神の愛の証拠以外の何物でもない。

彼は深く根ざす消し難い欲求を持つていたことを知っていた――果たして何を求めてか?

悲しい哉、彼はただ盲目的に求めた。

そして盲目的に焦慮したのであつた。

然るに神は忍耐強くいまし、人生の数多い十字路を越えて、忍耐をもて彼を導き給ひ、つねに底なき奈落の断崖から、彼を護り給ふた。

彼は欲求を持つと知りながら、「自ら祈るべき所を知らず。」

然るに、神はその何なるかを知り、求められずともそれを彼に与へんと決し給ふた。

このことを思へば、彼は奮ひ起ち、目を輝かせ、手足の振ひ立つ力を感ずるのであつた。

☆☆

私は若い頃、当然に甚だ自信に充ちていた。

エマーソンの論文の中、「自恃(=自らに寄り恃(たの)む)」と題するものが、私の特愛の一文であつた。

体格において、私はやや蒲柳(ほりゅう)の質とされたにも拘らず、身体的精力に附ては、私は確信を持つていた。

頭脳の精力について、私は口に謙遜でありながら、友人の誰よりも高慢であつた。

かくて私は、意気昂然と闊歩していた――何処を目ざすあても知らず。

それが主我的自恃人の姿であつた。

☆☆

しかもその時、「永久(とわ)なる不死の愛」は私を憐み、その恵みの手をさしのべ、御力によつて私を引き戻し給ふた。

ああ、いかばかり私はこの力に抗し争つたか!私はもがき闘つた。

私は怒りわめいた、然しそれは「棘ある策(むち)を蹴る」が如くであつた。

かくて、私は止め難い涙の中に泣き悲しみぬいたが、凡て無益であつた。

「他者」の意志の如くに事柄は進んだ。私の意志の如くにではなかつた。

私がこれ迄に恵み深い神の許し給ふまでに、集積し得た何程かの人生体験は、私に全面的な自己不信を教へてくれ、それに代へて、確固たる他者信頼(オルター・コンフィデント)を教へてくれた。

人生の溶鉱炉において、事物は人の意図するやうに型どられない。

神の意思に依ること、自我の意思の、神意に対する激しい抗争において、征服し彼らを強制するのは、神の御手にあり、彼らの分は打ち倒され余儀なくされるにあること、

要するに、我らの小さな計画は常に敗れ、神の意図は決して敗れざること――、それが我が慰めであり、また私に無上の確信を与へる。

かく保障されて、誰かいつまでも不信失意に止らうとする者ぞ。

☆☆

内省して無益にも自己の内に善を見い出さんとするとき、私に不安と失望がある。

然し私が仰ぎ見て高きに在す彼に祈りを捧げるとき、私は確信と慰安に充たされる。

その時、失意そのものも却つて、わが慰めとなる。

たとえ私自らが盲目であり、我が求むる所を識らずとも、私は少くとも神が愛であることを知る。

たとへ私は何を祈るべきかを知らずとも、私は少くとも神は知り、愛し給ふを知る。

少くとも私は「聖旨(みむね)を成させ給へ」と祈り得る。

そして一切の祈りの中、聞かれることを確信し得るものがありとすれば、それは同じ「聖旨を成させ給へ」といふものに違いない。

然り、もし彼の意思でなければ、誰の意思を成らしめようといふのか。

そしてもし、彼の意思の成ることが確実であり、彼が全能の愛であるならば、猶(なお)も失意と不孝の理由がどこにあり得ようか。

☆☆

顧みて、私は自分の脆弱さと頼り難いことを、ひしひしと感ずる。

かつて抱いた自信は、今や去って、無い。
 
然しそれに代へて、私は神の我らに対する驚くべく優れた配慮を識るに到った。

もし人生が、我ら個々人の独立の力のみによつて築き上ぐべき建物であつたならば、それは人にとっては余りにも大きな仕事であったらうし、現世の何物をも押し流し去る力に、単身よく対抗し得る者は稀であらう。

人生の建物を自ら建てる者のいかに少いことか。

更に少きは、人生の計画の初志を自ら貫き得る者ではないか。

然るに、生命は神の計画し、遂行し給ふものであるから、人生の外見的の失敗も苦難も、我らの神への信頼を強める助けをなす。

私にとつて少くとも、私の目を「摂理」と呼ばれるかくれた力に向けさせ、摂理に認むべき神の人格的の愛と導きに目を開かせたものは、人生の辛苦にみちた試練であつた。

それらは有り難くない試練ではあつた。

然し来てから後は、その夫々の相貌は次第に変つた。

私は、試練の怖ろしい仮面の下に、親しむべき容貌を認めないことは無かった。

☆☆
約言すれば、神の前に、正しい道に歩むといふ自分の力に、私は自信がない。

然し、私は神の慈愛を信ずる。彼が彼の道に私を導き、その道にはずれず歩むやう、私を強ひ給ふことを確信する。

私の今日あるは、私の意思によるのではない。

神が他の歩き方を私に許し給はなかつたからである。

その強要は屡々(しばしば)不愉快なものではあつた。

その重圧の下で、私はうめき、悲嘆したこと稀ではない。

然し、それにも拘らず、私は、少しずつ神の愛と、智慧の深さ、広さを知るに到らざるを得なかった。

彼は私の些少の望みを拒み、私に遥に大きく高い望みを抱けと教え給ふた。

彼は全く力づくで、私を乳と蜜との流れる国に引込んだ。それはたしかに力づくといへよう。

それであるから私は確信を持ち得、絶対に保証されて、幸福なのである。

これが私が自分のものと主張し得る唯一の幸福である。

そして何人もこれを主張し得ないといふことはない。

私はこれだけの幸福で満足である。

然りこれこそ私にとつて、想像し得べき最大の幸福、祝福された保障である!

ーーーーー

この様に私が語り終へた時、我が若い友は沈黙し続けた。

月は昼のやうに照つていた。

空に風なく、家は寂として声なかつた。

崇高な静寂は天をすべ、平和は地に溢れていた。





ー『三谷隆正全集』第四巻より





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聖歌292 「今日まで守られ」



1.今日まで守られ 来たりしわが身
露だに憂えじ 行く末などは

いかなる折にも 愛なる神は
すべての事をば 善きにし給わん


2.か弱き者をも 顧み給う
わが主の恵みは この身に足れり

にぎおう里にも 寂しき野にも
主の手にすがりて 喜び進まん


3.主の日ぞいよいよ 間近に迫る
浮世の旅路も しばしの間のみ

まもなく栄えの御国(みくに)に行きて
永遠(ときわ)に絶えせず
わが主と住まわん



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