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キリストにある私の兄弟へ、


こんにちは。お元気にしていらっしゃいますか。

先日は、私の問いに誠実に応答してくださり、人間の自由意志に対する罪の影響について、わざわざ記事を書いてくださり本当にありがとうございました。

さて、こういった神学的なテーマに関し、女性である私が、男性の信仰者の方にどのように応答さし上げるのが主のみこころなのかを私は模索しており、今も、心の中で祈りながらこのお手紙を書いています。

イエス様、私が自分の分を越え、あなたのお立てになった美しい創造の秩序を乱すようなことのないよう、どうか御霊によって私を制御し、また導いてください。

またこの文章の初めから終わりまで、あなたの愛と真理と憐れみが、私と兄弟との間に、そしてこのレターを読んでくださるすべての兄弟姉妹の間に満ち溢れますように。

イエス様の御名を通してお祈りします。アーメン。

☆☆

さて、堕落後、人間の知・情・意の領域に、深刻きわまりない罪の影響が及んでいるという兄弟のご説明、ええ、私も心より同意いたしました。

私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」(エペソ2:1)であり、「罪の奴隷」(ローマ6:20)であり、また、「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)と聖書は明記しています。

またエレミヤ書にも、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」(エレ17:9)と確かに書いてあります。

そう、それはそうなのですが、記事の結論部分をお読みしたところ、

〔この記事の内容に〕最後までご納得いただけた場合、いわゆるカルビニズムの5つのポイントのうち、「全的堕落」と「不可抗な恵み」という2つを承認していただいたことになります。



と書いてありました。

ええ、私は兄弟のお書きになった記事の内容には同意いたしました。

しかしながら、それがカルヴィニズムの「全的堕落」と「不可抗な恵み」への承認となったかといいますと、正直に申し上げまして、それにはつながりませんでした。

そこで、今日、このお手紙の中で、自分がなぜそのように考えているのかを、兄弟と、そして読者のみなさんとお分かち合いしたいと思います。

なお、「全的堕落」も「不可抗な恵み」もそれぞれが大きなテーマですので、このレターでは、前者の「全的堕落」の部分にのみ焦点をしぼり、書きつづっていきたいと思います。

☆☆

カルヴィニズムの教理を調べていく中で一つ気づいたことがありました。

それは、カルヴィニズムが「全的堕落 total depravity」と言う時、それは、「私たちは本当にどうしようもないほど罪深い」という一般のコンセプト以上の意味が含まれているということです。

それはポール・ウォッシャー師が言っておられるように、「堕落した人間には、神を愛することも、従うことも、喜ばせることもできない」という意味であり、救われていない人には、全くもって神を愛することも、神に従うこともできないという事だと理解しています。

それゆえ、カルヴァン主義の「全的堕落(total depravity)」は、全的不能(total inability)という風にも呼ばれることがあることも知りました。(参:ココ

そして全的不能が指し示すのは、人の意志は罪とサタンによって縛られているため、私たちは神を信じることを意志することもできず、また、「アダムの子孫は罪の性質を持って生まれてくるため、人は霊的な悪以上に善の方を選び取っていくという能力も持ち合わせていない。註1」ということだと理解しています。

(註1.Thomas Steele, Five Points of Calvinism, Presbyterian and Reformed, Phillipsburg, 1963, p. 25)

また、もちろん、人の救いは神様側からの働きかけがない限り決して起こりえないことは聖書が明記している通りです。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
エペソ2:8



、、、あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。
エペソ2:5b



しかしながら、親愛なる兄弟、私のみる限り、カルヴァン主義の「人は善を選び取るという能力を全く持ち合わせていない」という「全的堕落」の教理は、ここからさらに進んでいくように思えるのです

例えば、カルヴァン主義の方々の、次のような言葉を読んでみてください。

自由意志というのは、人間のでっち上げであり、悪魔によって扇動され作られたものである。

David Wilmoth, The Baptist Examiner, September 16, 1989, p.5



「自由意志」という異端は、神を王座から引き下ろし、その代りに人間を王座にのしあげるものです、、

「自由の恵み」および「自由意志」というこの二つの概念は、完全に互いに相反しています。自由意志を肯定する者は誰であれ、主権者なる神の恵みに無縁なる人たちです。

W. E. Best, Free Grace Versus Free Will, p.35, 43



人間が自由な倫理的主体(a free moral agent)であると主張するのは、人が全的に堕落している事を否定する行為に等しい。

Pink, Sovereignty of God, p.138



しかし、もしこれらの言説が正しいとするなら、初代教会のクリスチャンたちの信仰や自由意志に対する理解は、「悪魔によって扇動され」、また「神を王座から引き下ろし、人間を王座にのしあげる」ものに他ならなかった――そう言わざるをえないように思います。

少し長いですが、もしよろしければ、次に挙げる引用をお読みください。


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初代クリスチャンと自由意志


(*ここのセクションは、「初代クリスチャンは、人間の自由意志についてどのように考えていたのでしょうか。」という、以前に書いた記事からの引用です。)


罰や懲らしめ、そして報いは、各人の行ないの真価にしたがって与えられるということを私たちは、預言者たちから学び、そしてそれが真実であるとみなしている。

もし、そうでなく、万事が運命のなすところであるならば、私たちの側でできることは、何もないという事になってしまう。というのも、もし、ある人が善良で、別の人は邪悪ということが予定されて(predestined)いるのだとしたら、その場合、前者は賞賛に値しないし、後者を責めることだってできないではないか。

自由な選択によって悪を避け、善を選ぶ力がない限り、人間に、自らの行ない――それがどんな行ないであっても――に対する責任はない。

なぜなら、もし、その人自身が善を選ぶのではなく、ただ、そうするように(神に)造られただけのことであったら、彼は報いや賞賛を受けるに値しないからである。

殉教者ユスティノス(110-165)の『第一護教論』第43章



もし、魂に、取捨選択する力がないならば、そして悪が、自由意志によらない否応なしのものであるならば、賞賛も非難も、報酬も罰も、正当なものとは言えない。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、Miscellanies, bk 1, chap.17



お造りになった万物を、神は良きものとされた。そして神は、各人に自由に意志する心をお与えになった。そして、それを基準として、神はまた、裁きの法を制定された、、、そして当然、誰でもそうしたいという意志を持つ者は、掟を守るであろう。

一方で、それらの掟を侮り、それとは正反対の方向へ逸脱する者も、依然として、この裁きの法に直面せざるをえないことは確かだ、、、各人が、適切な意志力を用い、どの方向でも自分の望む方へ、自分の進路を定めていくだろうことに疑いの余地はない。

アルケラオス(AD250-300)、Disputation with Manes, Secs.32,33



人間は自由意志を持たず、避けることのできない運命の必然に支配されている」と考えている彼ら〔異教徒〕は、神があたかも、人間悪の原因であり、悪を造った張本人であるかのように描き出すことによって、神ご自身に対して不敬の罪を犯しているのだ。

メトディウス(AD260-315)、The Banquest of the Ten Virgins discource 8, Chap.16



人の行ないや苦しみは宿命によるものでもない。そうではなく、各自は、みずからの自由選択により、正しい事を選ぶか、もしくは罪を選ぶかしているのだ、、、なぜなら、神は創造のはじめに、御使いにも、人間にも、自由意志をお与えになったからだ。従って、彼らが自ら犯した罪により、永遠の刑罰を受けることになっても、それは正当なこととされるのである。

殉教者ユスティノス(AD160)、Ante-Nicene Fathers Vol 1.190



人間であれ、御使いであれ、不敬虔な者と予知されていた人たちは、神のせいで、そのように邪悪に造られたのではない。各自は、自分自身の過ちを通して、そのような者として次第に現れ出てくるのである。

殉教者ユスティノス(AD160)、ANF 1.269



人間も御使いも、自分の意志のままに動けるよう自由な存在として造られた。だからといって、彼らに善なる性質が宿っているわけではない。それをお持ちになっているのは神のみである。

しかしながら、それは彼らの自由選択を通して人間の内で全きものとされていくのである。その意味において、悪人は、自らの咎により堕落したことによって、正当に罰せられる。

その一方、義人は、その自由選択を行使することにより、神のみこころに反することを避けたことにより、賞賛されるに値するものとみなされるのである、、、そしてロゴス〔=イエス・キリスト〕の御力は、それ自体において、未来の出来事を予知する機能を持しているのだ。

彼は「今後~が起こるだろう」と何度も未来のことを予告されたが、それは、運命としてのものではなく、自由な行為者たちの選択によって行なわれるものとして語られていたのである

タティアノス(AD160)、ANF 2, 67,68



私たちは死ぬべくして創造されたのではない。そうではなく、私たちは自らの咎によって死ぬのだ。

私たちの自由意志が自分たちを破壊したのである。自由な存在であった私たちは〔罪の〕奴隷となってしまった。罪を通して売られてしまったのである。どんな悪も、それは神によって造られたものではない。私たち自身が悪を表明しているのである。しかし、これまでそのようにして生きてきた者も、それを拒絶することができる。

タティアノス(AD160)、ANF 2, 69,70



しかしもしも、彼が神に不従順な者となり、死の方向に向きを変えるなら、彼自身が、自らに対しての死の原因となるのだ。なぜなら、神は人間を自由な存在としてお造りになり、選択する力を付与されたからだ

セオフィロス(AD180)、ANF 2.105



しかし、理性を賦与された人間は(その点において神に似ている)、自由意志を持った存在であり、自らに対する力を持った存在である。そしてその人が麦となるのか、もみがらとなるのかは、彼自身のもたらすところとされる。

エイレナイオス(AD180)、ANF 1.466



〔マルキオン派の人々は〕こう言っている。「しかし神はパロと侍従たちの心をかたくなにされたではないですか?」と。こういう難癖をつける人々は、主が福音書の中で弟子たちに語られた次の言葉を理解していないのだ。

そう、弟子たちが主に、「なぜ、彼らにたとえでお話になったのですか?」と尋ねた際、主は、こうお答えになった。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」、、

だから、神は、信じることをしない人々の数を知っておられるのだ。なぜなら、主は全ての事を予知しておられるから。従って、主は、自らの選択で暗闇にとどまり続ける者たちを不信仰に明け渡し、御顔をそむけられるのだ。

なぜ〔マルキオン派の人々は〕、主がパロと侍従たちを不信仰に明け渡されたのだといって難癖をつけているのか?パロや侍従たちは、(その後も)決して主を信じることをしない人々だったのだ(for they would never have believed)。

エイレナイオス(AD180)、ANF 1.502



神は、ご自身のわざを行ないたくない人に対しては、その人に、その行使を強要されない。、、彼らは自由な行為者として創造されたのであって、自分自身に対し力を持っているのである。

エイレナイオス(AD180)、ANF 1.523



自分の自由意志を持って、罪を犯す人はそれぞれ、刑罰を選び取っているのである。それゆえ、責めは、それを選び取る本人にあるのであって、神にその責めはない。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF 2.226



罪というのは、私の側によって引き起こされる、自発的なものということになる。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF 2.362



自らの意志に反して救われる人はいない。なぜなら、その人は無生命の物体ではないからだ。彼は自らの意志により、自由選択により、すみやかに救いへと導かれるのである。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF 2.534



私たちの意志の自由、、、魂というのは、神の息に源を発している。それは、不滅であり、、その決定において自由である。

テルトゥリアヌス(AD210)、ANF 3.202



人間は、〔植物や動物のように〕は統治されていない、、彼らの心の思いに関し、彼らは自らの選択により――力を賦与され、神のかたちに似た自由な存在として――行動しているのである。

バルデサネス(AD222)、ANF 8.726



この世界を創造された神は、悪をお造りにならなかったし、今も造ってはおられない、、人間は、自ら決定することのできる機能を主より賦与された被造物であるが、至高の知性は持していない、、、そしてこのように自ら決定する機能を持つ人間が悪を行なっているのである。

人間には自由意志が賦与されているため、善き神のご目的ゆえ、主により掟が与えられている。こういった神の掟は、理性のない動物には与えられていない。動物にはただくつわと鞭が与えられている。それに対し、人には神の掟が――それに従うべく――与えられているのである。

ヒッポリュトス(AD225)、Ante-Nicene Fathers, Vol 5.151



教会の教えの中で明確にされているのは、理性を持つ人間の魂は、自由意志および選択力(volition)を持しているということである。さらに、それぞれの魂は、悪魔やその他の敵対勢力に対し、抵抗を続けている。

なぜなら、こういった悪の勢力は、魂を罪によって重くしようと挑んでくるからだ。また、私たちは必然性の支配下に置かれてはいない。つまり、私たちは自分の意志に反し、さまざまな手段によって、善なり悪なりをするよう強制されてはいないのだ。

オリゲネス(AD225)、ANF 4.240



なぜ〔キリスト教批判家であるケルソスは〕こう言うのか、、、「神は瞬く間に邪悪なものを取り除き、徳を人の思いに植え付けるのだ」と。、、それなら、どこにわれわれの自由意志が存在すると言うのだろう?

そして〔人に自由意志がないのなら〕、真理に従うことに何の誉められたことがあるのか。そして誤謬に対しこれを拒絶することに何の賞賛すべきことがあろう?

オリゲネス(AD225)、ANF 4.498



人間に全ての物をお与えになった時、主は人間だけが自由な存在であるべく意志された。そして制限のない自由が人を危険に陥れることのないよう、主は一つの掟を人間に与えられたのだ。、、、

こうして人は、もし彼が与えられたこの自由意志を持って神の掟を軽んじるなら悪が生じるという事を前もって警告されていた、、、結果、人は価値ある報い、あるいは正当な刑罰を受けるのである。なぜなら、彼には選択する力が与えられていたからである。

ノヴァティアヌス(AD235)、ANF 5.612



信じるのか、それとも信じないのかという自由は、われわれの自由選択の領域に存している。

申命記ではこう言っている。「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申30:19)。また、イザヤ書では、「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる」(イザヤ1:19)。

キプリアヌス(AD250)、ANF 5.547



ある人々は、人間には自由意志はないと主張している。曰く、人は、避けることのできない宿命、およびその不文律(unwritten commands)によって統治されているのだと。

そのような事を言う人々は、神ご自身に対する不敬の罪を犯している。なぜなら、そのような言い分により、彼らは結局、人間悪の原因や作者を、神に帰することをしているからである。

メトディウス(AD290)、ANF 6.342



神は人間に対し、「これらの掟を守りなさい」とお命じになっておきながら、同時に、そういった掟に従う(あるいは従わない)力を人間からはく奪するのだろうか。私にはそうは思えない。

メトディウス(AD290)、ANF 6.362



両者共に、やがて神の審判があるということを認めているのだから、そこから必然的に導き出される結論として、私たちには自由意志があるということが言えよう。それだから、各人は――賦与された意志の力をどのように行使するかにおいて――己の道程を形成していくのである。

Disputation of Archelaus and Manes (AD320)、ANF 6.206



〔キリスト教批判者に対して。〕あなたの「知恵」がそれほどまでに偉大なものであり、キリストによって提供された〔救い〕が荒唐無稽なものだと考えるのなら、答えてほしい。

なぜ、主はそれでも尚今に至るまで、あなたを招き続けているのか。――なぜなら、主の唯一の責務は、ご自身の〔救いの〕賜物をあなた自身の自由選択に置くことにあるからだ。

アルノビオス(AD305)、ANF 6.458



(*バランスのために「初代クリスチャンは、神の主権と摂理についてどのように考えていたのでしょうか?」の記事もできればご参照ください。)


兄弟、お手紙が、長くなりましたので、いったんここでペンをおいて、次のページにまた続きを書いていきますね。


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キリストにある私の兄弟へ捧げるお手紙(2)―「人間の自由意志に対する罪の影響」についての記事をお読みして

この方の呼びかけ