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キプリアヌス、紀元3世紀


今、アウグスティヌスのA Treatise On the Predestination of the Saints(『聖徒の予定説について』)を、少しずつ読み進めています。

1章からていねいに読んでいくと、彼の考え方のプロセスがよく分かり、また「なぜ」そのような考え方・解釈に至るようになったのかが生き生きと伝わってきます。また、その他、今まで知らなかったいろいろな発見があって楽しいです。


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☆☆

そういった思わぬ発見の一つが、カルタゴの牧師キプリアヌス(3世紀)に関するものでした。

アウグスティヌスはこの書の中で、何回か尊敬の気持ちを込め、「I speak of the most blessed Cyprian(もっとも祝福されしキプリアヌスについてお話しますと、、)」と彼について触れていました。

私は二人がそういう風につながっていたことは全然知らなかったので、「へぇー、アウグスティヌスは、キプリアヌス牧師のことを尊敬していたんだ。ふーん、なるほど。」と心は遥か4世紀のカルタゴへと飛び立っていきました。

その時分、アウグスティヌス自身も、神の主権と人間の自由意志の問題についていろいろ葛藤していたということを告白しています。

そんな時、キプリアヌスの「私たちは決して何をも誇ってはならない。なぜなら、何物といえども、それは自分自身のものではないのだから。」という言葉がアウグスティヌスの心に刺さったそうです。

この記事では、キリストを信じ、カルタゴ教会の牧師となり、最後には殉教の道をたどった神の人であるキプリアヌスの生涯と信仰について、みなさんとご一緒にみていきたいと思います。

☆☆

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北アフリカに、Carthage(カルタゴ)と書かれた濃い青の部分がみえますか?この図をみると、キプリアヌスが生きた3世紀には、この地域に多くのクリスチャンがいたことが分かります。


キプリアヌスは、3世紀の初め頃、北アフリカのカルタゴで生まれました。

父親は、ローマ帝国の評議員の一人であり、裕福な異教徒でした。

キプリアヌスは、そんな家庭の御曹司(おんぞうし)として当時一流の教育を受け、育っていったのです。

回心前、彼は、修辞学の教師を修め、また演説家、カルタゴ法曹界の有力メンバーとして活動し、しかし、(回心後の)彼自身の言葉を借りると、「当時、私は、暗やみと陰鬱な夜の中に横たわっていました。」


新しく生まれるとはどういうこと?―彼の葛藤


30歳の過ぎたある年、キプリアヌスにとって人生を揺さぶるような出来事が起こります。

カルタゴ教会の老聖徒であり、長老であったセシリウスとの出会いがそれです。

セシリウスの天的な生き方と信仰は、キプリアヌスの魂の内に大いなる葛藤を生じさせました。

また彼は、聖書の中には「新生」という概念があることも聞きました。

しかし「そんなことが一体可能であろうか?」と彼は疑い悩みます。

そういった内的告白を彼はAd Donatumという著述の中に残していますので、その部分を訳そうと思います。

私がまだ暗やみと陰鬱な夜の中に横たわっていた時分のことです。

その当時私は、神のご慈愛が私に要求していることを実行するのはまったく至難の業だと考えていました、、

自分自身、その当時、数えきれないほどの過失と罪に縛られていましたし、そういったものから解放されるなど、どだい無理な話だと思い込んでいたのです。

こうして私は、悪徳に引きづられ、また数々の罪にふけっていました。




新しく生まれ変わった!


しかし、そんな彼についに喜ばしき救いが訪れました。

そうです、彼はキリストを信じる信仰により新しく生まれ変わったのです。そのことを彼は次のように告白しています。

しかし、その後、新生の水の助けにより、これまでの人生の汚点が洗い流されたのです。

そして天よりの光が――そうです、清澄で聖い光が――神と和解した我が心の中に注ぎ込まれ、満ち溢れました、、

この新生が私をして新しい人間へとなさせしめたのです。

そうすると、どうでしょう。まったくすばらしい仕方で、これまで自分の内でくすぶっていたあらゆる疑いが私の内から消えていったのです、、

ええ、今の自分にははっきり分かります。――肉の悪徳により奴隷となっていた自分の内に当時生きていたものは地上的なものであったことを。

そして、聖霊が私の内でなしてくださった事こそ、神聖かつ天的なものであるということを。

— Cyprian, Ad Donatum, 3-4




さて、新生したキプリアヌスはその後どのような道を歩んでいったのでしょうか?


その2につづきます。


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魂を愛する牧者、そして殉教者として―キプリアヌスの証しのつづき(3世紀、カルタゴ)

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