その1)からの続きです。

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3世紀のキリスト信者による碑文 source


新生の喜びに与ったキプリアヌスは、財産を貧しい人々に施し、物資的な縛りから解放され、喜びに躍りました。そして彼は献身の道を選びました。

カルタゴ教会の監督になったキプリアヌスは、信者の友に宛てて次のような手紙を書いています。

真に安らかで、信じ寄り頼むことのできる平安、そして真に揺るがず、確かで、けっして変わることのない安心感とは何でしょう?

それは、この世の喧噪から身を引き、救いの固い土台の上に自分自身をしっかり据えることです。

そして地上から天に目を上げることです。

真の意味でこの世より偉大な者は、この世から何をも欲さず、何をも望みません。

ああ、こういった主の守りは、なんと安定し、なんと揺るぎないものでしょうか!

そして永遠につづく祝福の中にあり、なんと天的でありましょう!

それにより、私たちは、この混沌とした世の罠から自由にされ、地の汚れから清められ、

そして、とこしえの命の光にふさわしいものとされるのです。

Cyprian, Ad Donatum, 14




キプリアヌスの残した霊的遺産


キプリアヌスは教会の牧者として、魂のことに気を配り、また他の牧師たちとも密に連絡を取っていました。

彼の残した大量の書簡集を読むと、当時のキリスト教会の日々の懸念や問題がどのようなものであったのかがよく分かります。

たとえば、妥協せずイエスにつき従っていくと同時に、クリスチャンの間における兄弟愛をいかに純粋に保っていくのか――。

これは、3世紀の初代教会だけが抱えていた問題では決してないと思います。

たとえば、キプリアヌスが牧会していた教会の近くのキリスト教会で、次のような問題が生じました。


不道徳な職業をやめたい


ある異教徒の男性がイエス・キリストを信じ、クリスチャンになりました。

その男性の職業は、舞台俳優でした。

回心後、彼は、「私は職種を変えるべきではないか?」と考え始めました。

というのも、当時の芝居のほとんどが、不道徳を助長するような内容であり、こういった演劇は、異教の偶像崇拝にも深く関わっていたからです。

また、当時、役者たちが舞台で女役をうまく演じられるよう、演劇界は時に、少年の役者たちを意図的に同性愛者にならせようと仕向けたりもしていたのです。

「ああでも、私には舞台俳優以外、他に何ら職歴がない。転職しようにも、他に技術がないのだから、、、」と、この男性信者は悩みました。

「あっ、それなら、未信者を対象に演劇を『教える』というのはどうだろう?そうしたら、私自身は、直接、この世界に入り込まずにすむし、生活の糧も得ることができる。うーん、でもいまいち、確信が持てない。」

そこで彼は、そういった悩みや葛藤を、教会の長老たちに正直に打ち明けることにしました。

☆☆

長老たちは彼からの相談を受け、熟考した後、次のように答えました。

「そうですね、うーん、役者業が不道徳な職業であるなら、人を役者に『養成して』、その道に『入らせる』こともやはり良くないことだと言わなければならないように思います。

でも、これはかなり稀なケースですから、私たちはこの件を、近くの教会におられるキプリアヌス監督にも相談することにします。」

相談を受けたキプリアヌスもやはり、彼らに同意して言いました。

つまり、たとえ役者業が、彼の生計を立てる唯一の手段だとしても、キリスト信者にふさわしくない職業を他人に『教える』こと――これもまた、信者にふさわしくないあり方だと思います、と。

ここに私たちは、この世の価値観に妥協せず、キリストの弟子の道を歩んでいこうとする初代教会のクリスチャンたちの強い信仰をみることができると思います。

しかし話はここで終わったわけではありません。

キプリアヌスは、さらにここから愛に満ちた牧会的配慮をもって、長老たちに言いました。

――もし、この役者が、他に生計の手段を持っていないのであれば、孤児ややもめ、貧しい人々を支援しているのと同様、教会は進んで彼を支援すべきです。

そしてさらに次のような言葉もつけ加えています。

もし、あなたがたの教会で、彼を支援するのが経済的に無理ならば、彼をこちらの教会に送ってよこしなさい。こちらで彼は必要な食べ物、着る物なんでも受け取ることができます。

Cyprian, Letter to Euchratius, epis.60



キプリアヌスにとっても、彼の監督する教会にとっても、この役者は、一面識もない人でした。

しかし、どこの教会に属していようが、彼は主にあって愛する兄弟であり、霊の家族でした。

ですから、キプリアヌスは自分たちの教会で彼を養う覚悟を持って、このような書簡を書き送ったのです。

クリスチャンの間に溢れるこのような愛をみて、彼らをけなし迫害する敵でさえも、こう叫ばずにはいられませんでした。


見よ。彼らはなんと互いに愛し合っていることか!


テルトゥリアヌス『護教論』第39章7




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もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

ヨハネ13:35




おわりに


キプリアヌスの時代には、カルタゴ地域の教会に激しい迫害が加えられていました。そのため、彼の牧会生活は、地下に潜ってせざるを得ない切迫した状況にありました。

しかし、彼はそのような苦難をものともせず、委ねられた羊の群れのために、力を注ぎ出し、そして究極的には、自らの命そのものをも注ぎ出しました。

258年、ついに彼はローマ人に捕えられ、打ち首にされ、殉教の死を遂げたのでした。

それでは最後に、キプリアヌスの言葉を引用して、おわりにさせていただきます。

「キリストに従う」とは何を意味するのでしょう。

そうです、それはキリストの掟の内に立ち続けることを意味します。

そしてキリストの教えの内に歩み続けることを意味します。

そしてそれは、キリストの足跡と主の歩まれた道に従い続けることを意味します。


ーキプリアヌス





〈参考文献〉

Philip Schaff, ANF05. Fathers of the Third Century: Hippolytus, Cyprian, Caius, Novatian, Appendix
Alban Butler, The Lives of the Saints,Volume IX
デイヴィッド・ベルソー著『初代キリスト教徒は語る――初代教会に照らして見た今日の福音主義教会』



巡礼者の歌―ゲルハルト・テルステーゲンの信仰詩

新生の喜びに与って―魂の牧者キプリアヌスの生涯と信仰 (3世紀、カルタゴ)