私はヨブの話にとても慰められています。彼も「もう耐えられない」って思う時があったのでしょうか。

神様が本当に自分のことを見放ずにいてくれているのか、ヨブも疑うことあったのかな?

耐えられないほど痛みがひどくなって、それでもう「この先、僕の暗闇はけっして過ぎ去らない」って思うこともあったのかな。

それは彼にとっての暗いトンネルだったのかもしれない。

で、私、思うんです。――その時、彼は向こうの方に淡い光を見ることができていたのかなって。



上の文章は、海外のティーンの女の子からの手紙の抜粋です。

彼女は主を心から愛しています。

しかし(彼女曰く)アップダウンが激しく、感情的に激しく神様を愛する時があるかと思えば、今度は逆に全く神様の愛が感じられず、不安で、真っ暗で、どうしようもない気持ちになる時も多く、、、今、自分が、暗いトンネルの中にいるように感じていると書いていました。

傷と痛みと試練の中を通らされているように思います。

何度も暗闇に飲み込まれそうになりました。ほとんど希望を失いかけた時も多々あります。でも神様はそんな私にいつも誠実であり続けました。

一つの試練が終わると、主は私を回復させてくださいました。試練を受ける前に比べ、私は二倍にも成長したように思います。でもそういった成長は赤ちゃんの歩みのように本当に遅々としたものです。

でも少なくとも、私は今、どこかには至りつつあるという実感があります。少なくとも、止まらずに動いているっていう実感です。



この少女の手記を読む時、私は自分自身のティーン時代を思い起こさずにはいられません。

彼女と同じように、私も浮き沈みが激しく、また強烈なエネルギーや情熱をどこに発散すればよいのか分からず、自分のエキセントリックさにおびえているという状態でした。

小学校2年生の時、近くのお店でポルノ雑誌を見つけ、私はそれが何なのか、なぜこのような雑誌があるのかを周りの大人の人たちに尋ねました。

小学校6年生の時、「あと70回位、夏を迎えたら、私たち人間はみんな死んでしまう。」ということを学校の先生から聞いて、その日の夜、泣きながら、「私は死にたくない。無くなってしまいたくない。」とその恐怖を訴え、なぜ人間は死んでしまわなければならないのかを周りの大人の人たちに尋ねました。

中学校の時、私は自分がなぜ友だちのことを嫉妬するのか、そのことを非常に悩み、その苦しみを周りの大人の人たちに訴えました。

でも、私の記憶の中では、周りの大人の人は、そんな自分をやさしく受け止めてはくれても、肝心のその「問い」に答えてはくれませんでした。

戸惑っていたのかもしれません。あるいは大人の人たちもその答えを知らなかったのかもしれません。または私の尋常でないエネルギーと真剣さに「引いて」しまっていたのかもしれません。あるいは単に私が支離滅裂なだけだったのかもしれません。

でもやはりさみしかったです。

☆☆

今、若い姉妹たちが、私に何かを訴えてきています。

彼女たちは一生懸命です。いつも全力投球です。

フルパワーで私に向かってきます。

だから私もフルパワーで彼女たちに向き合いたい。

――私も昔、周りの大人の人たちにそうしてもらいたかったから。

「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」(箴言18:14)っていうこのみことばを暗唱しようって思ってます。

これからはもう「ひしがれた心」じゃなくて、「贖われた心」の持ち主として生きていきたい。

そうして、この混乱した世界にあって、私もまた、他の人を励ます人へと変えられていきたい!



アーメン!

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