圧迫され、
分裂と仲たがいによって裂かれ、
あらゆる異端により苦しめられる彼女(=教会)をみて、
この世はあざ笑う。

しかし聖徒たちはたゆまず見張り、
「いつまでですか?」との彼らの叫びは
天に立ち昇っている。

――涙の夜は、やがて必ず
歌声に満ちた朝となることを信じて。

労苦と患難、
彼女の内外を襲う混乱のただ中で、
彼女はじっと待つ。
――やがて訪れる永遠なる平和の成就を。

勝利をおさめし偉大なる教会、
それが安息を得たエクレシアとなるのだから。


The Church's one foundation教会のただ一つの土台)、1866



このシリーズを通し、みなさんと共に、主イエスさまの教えてくださった「主の祈り」の力とすばらしさについて黙想し、考える機会が与えられ、感謝しています。

「天にいます私たちの父よ。」

イエスさまが「『私たちの』父よと呼びかけなさい」と仰せられた時、その「私たち」の中に誰を含めるよう主は望まれたのでしょうか。

☆☆

このブログの中でも私は、昨今の組織的エキュメニカル運動に対し懸念の声を挙げてきました。

御霊が主導とならない人為的・組織的な「一致」は、聖書の真理(主要教理)そのものを犠牲にした上でなされる場合が多いと思います。

以前ご紹介しましたフランシス・シェーファーの『クリスチャンの標(しるし)』の中でもそのことが警告されてありました。

『クリスチャンの標』―フランシス・A・シェーファー(4)

闘い、かつ愛し抜く



しかしながら、今回、このシリーズを書き、また「主の祈り」を黙想する過程で、私の霊は今までにないほどの呻きをもって「私たちの一致」――霊的・有機的一致――を希う(こいねがう)ようになりました。

☆☆

以前、コプト信徒によって日々捧げられるアグペヤの祈り(الأجبية)というのを目にしたことがありました。

コプト教会というのは、世界最古のキリスト教会の一つであり、その起源はAD42年ともいわれています。(source)

教会史家のエウセビオスによれば、「このマルコが福音宣教のためにエジプトに遣わされた第一人者だと彼らは言っている。これについてマルコ本人もそれを記しており、彼がアレクサンドリアにて教会を建て上げた最初の人である」ということです。(Eusebius, Ecclesiastical History, 2.16.1)

また、同著者による『年代記(Chronicles)』を読むと、使徒マルコがエジプトのアレクサンドリアに到着したのは「クラウディオ帝治世の第3年」(AD41-42年もしくは43-44年)とあります。

ということは、コプト教会の誕生は、イエスさまの死と復活から10年と隔たっていないということがいえると思います。本当に古い教会なんですね。

☆☆

アグペヤの祈りというのは、コプト信徒や砂漠の修道士たちのデボーショナルな霊想日課です。

「夜明けの祈り」「第三時の祈り」「第六時の祈り」、、という風に、一日に七回、彼らは主の前に静まって祈り、詩篇や福音書を黙想します。



coptic-prayer-220160703.jpg



またそれぞれの祈りは、「イエスさまの再臨」「イエスさまの埋葬」「イエスさまの十字架の死」「イエスさまの復活」といった具合に、それぞれ中心テーマが備えられており、祈りもその主題に沿うよう配慮されています。

従って、この祈りを敬虔に捧げる信仰者は、一日の内に、イエスさまの公生涯をその誕生から死、そして復活、昇天まで深く黙想することができるわけです。

これは、初代教会の「第三時の祈り」「第六時の祈り」「第九時の祈り」の慣習とその主題テーマを引き継いだ使徒的慣習だといえるのではないかと思います。(ただし、初代教会のクリスチャンは一日三回の祈りでした。)

☆☆

さて、私は、この祈りを捧げる方の「奥まった部屋」に一度、同伴し、「日没時の祈り」を実際に拝見させていただく機会に恵まれましたが、特に印象深かったのは、そこで荘厳に、そして全き畏敬の内に捧げられていた「主の祈り」でした。

そして、この「主の祈り」は、七回の祈りのたびごとに必ず捧げられているようでした。

☆☆

250px-CathedralAswan20160703.jpg
エジプト、アスワンにあるキリスト教会


今日も、エジプト各地の家々で、教会で、そしてシナイの砂漠の中で、私たちと同じ祈り――主の祈り――が天に向かって捧げられています。

「天にいます我らの父よ!」

この「我ら」の中には――日本とは教会環境も様式もかなり異なる場にいる――こういった信仰者たちも含まれているのでしょうか。それとも「彼ら」はあくまで「彼ら」であって、「我ら」の外側にいる人たちなのでしょうか。

みなさんはどう思いますか。

私たちプロテスタントの伝統にある「個人主義」にはたしかに有益な点も多いと思います。

しかしながら、それが行き過ぎてしまうと、「キリスト教=It's all about me and my Jesus)」という狭い霊的個人主義に陥ってしまう危険性もそこにあるのではないかと私は自戒しています。


神のまことの神殿である「キリスト教会」というのは、いくつもの壁で成り立っているのではなく、主を信じる人々の信仰で成り立っているのである。

ラクタンティウス(240-320)



願わくば、「主の祈り」を捧げる私たちクリスチャンの眼前に、(使徒信条の中に記されている)「聖なる公同の教会ラ:sanctam Ecclesiam catholicam、ギ:ἁγίαν καθολικὴν ἐκκλησίαν、英:the holy catholic Church」という普遍的・恒常的かつ壮大なパノラマが、どんどん拡がっていきますように。



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国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。

Quia tuum est regnum, et potestas, et gloria in saecula. 
(ラテン語)

Ὅτι σοῦ ἐστιν ἡ βασιλεία καὶ ἡ δύναμις καὶ ἡ δόξα εἰς τοὺς αἰῶνας.
(ギリシア語)

Ki lekha ha-mamlakha vehagevurah veha-tiferet l'olemei olamim.
(ヘブライ語)



アーメン!


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