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フランシス・A・シェーファー (1912 –1984)



相対主義か、もしくは神の絶対性か?



Relativism or God's Absolutes


―フランシス・A・シェーファー





このような状況の中にあって、私たち聖書信仰のクリスチャンは、今や、自らの身の振り方を決定していかねばならない日々に直面しようとしている。

福音主義クリスチャンにとっての「安泰な日々(soft days)」はすでに過去のものとなった。

今はただ、強固な聖書観の持ち主だけが、相対主義および相対的な思想の上に構築された現代文化の重圧に耐えることができるだろう。

私たちが覚えておかなければならないのは、神の絶対性に対する強固な見方こそが、初代教会をして、かのローマ帝国の重圧に耐えしめたという事実である



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ローマによる絶え間ない迫害に直面する中にあって、初代教会が忠実であり続けることができたのは、実に、神のこの絶対性に対する強いコミットメントがあったゆえだった。

それなしには、決して貞節を貫くことはできなかっただろう。


そして今日の様相は、初代教会時代のそれと驚くほど類似している。

というのも、われわれの社会の法的、倫理的、そして社会的構造は、ますます増加の一途をたどる反キリスト教的・世俗的コンセンサスを基盤に打ち建てられているからである。

☆☆

しかしながら、今日の福音主義教会では何が起こっているだろう。

神の絶対性に対する、初代教会が持していたようなコミットメントが、私たちの教会の内に見られるだろうか。

悲しむべきことに、そういったコミットメントはわれわれの内に、無い。

数の上では増加しているかもしれないが、福音主義には一致団結して、強固な聖書観のために立ち上がろうという姿勢がみられない。

しかし、もしもわれわれ福音主義クリスチャンが、今後も本物の福音主義者であり続けたいと願うなら、私たちは断じて、聖書に関する自分たちの見解に妥協を加えるべきではない。

もしも、福音主義教会の大部分が、聖書に関し「甘く、軟弱な」態度を取っていくのだとしたら、その勢力が数量的に増加したところで、何の意味もないだろうと思う。


Frances A. Schaeffer, The Great Evangelical Disaster, 1984より、私訳



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さらに、私たちの思考というのは、物事をアンチテーゼ(antithesis:反立)の内に捉えるよう、神によって造られているのである。

アンチテーゼによる思考というのはどういうものかというと、もしある事が「真理」なら、それに相反するものは「真理でない」というコンセプトのことだ。

もしくは、もしある事が「正しい」のなら、それに相反するものは「間違っている」という考え方のことだ。

私たちがアンチテーゼというカテゴリーの中で物事を考えるよう、神が私たちの思考をお造りになったというのは驚くことではない。

なぜなら、それは神の存在のリアリティーおよび神の被造物のリアリティーに適合しているからだ。


Frances A.Schaeffer, The God Who Is There, Appendix A: The Question of Apologeticsより
私訳



しかし――新しい神学にしても、東洋の汎神論にしても――こういった体系が最終的に行きつくのは、「とどのつまり何が正しいのか、何が間違っているのかを誰も正当に言うことはできない」という地点である。

一方、西洋の汎神論ならぬ〈汎なんでも主義 pan-everythingism〉においては、人はこの結論だけは少なくとも避けようとしている。

つまり、彼らは、「『正しい』とか『間違っている』とかいう言葉には何ら意味がない」と言い切ることに関しては今もためらいを感じているのだ。

しかしそれはできない相談である。

それはあたかも下り坂を転がりはじめた石ころのようにどんどん下っていくのである。

非人格的(な神観)から出発するなら――人はそれを宗教用語や、あるいはクリスチャン用語で飾ったとしても――そこには最終的な絶対性はなく、正誤に関する最終的なカテゴリーは存在しないのである。

それゆえ、そこに残されるのは、(さまざまな文化の中にあって、さまざまな方法で表現されるかもしれないが)、所詮、相対的なものに過ぎない。

――そう、社会的、統計学的、状況的相対主義、それ以外の何ものも生み出さないのだ。

平均的なスタンダードとして、状況的、統計学的倫理(価値体系)を持することはできても、私たちは倫理性を持つことはできないのである。

さらに言えば、〔非人格的な神観という〕状況の中にあっては、何かが「正しい」ということは、何かが「間違っている」ということと同様、無意味なものになるということを私たちは肝に銘じておかなければならない。

そういった状況の中では、もはや倫理としての倫理は姿を消し、そこに残されるのはただ形而上学の体系だけである。

正誤の問題に関し、そこに何ら〈意味〉が見いだされなくなるのである。


Frances A. Schaeffer, He Is There And He Is Not Silent, The Moral Necessityより
私訳



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