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Martin Luther


もし私がありったけの声で明瞭に神の真理を公言しているとしても、その小さな点――そう、今まさに、この世と悪魔が攻撃を加えているそのささいな一点――について触れるのを避けているなら、私はキリストを告白していることにはならない。

そう、たとえ(その他のことで)どんなに大胆に告白しているとしてもダメなのだ。

戦いが激しさを増す所において、兵士の忠誠心は立証される

そして全ての戦場において確固とした態度をとっていても、もし彼がその一点において尻込みしているなら、それは逃げであり恥辱であるにすぎない。

マルティン・ルター (私訳)



先日、ある方に、(祈りのベールに関するVTRの中で)次にはどのビデオを翻訳したらいいでしょう、ということをお訊きし、三択のチョイスをお出ししたところ、その方は、次のVTRを選ばれました。

How Gay Rights Advocates use Head Covering to Support their Position

いかにして同性愛を肯定する方々は「1コリント11章の被り物の聖句」を自らの立場の擁護のために用いているのでしょうか?



このビデオの字幕を訳しながら、私は改めて、今現在、福音主義教会がジェンダー問題で岐路に立たされていることを痛感しました。

その意味でも、この方が上のVTRを選んでくださったことは、神の摂理だったと感じざるをえません。

これを観ていただくと、「クリスチャンは同性愛をどう考えるべきなのか」という問いと、「1コリント11章の祈りのベールを実践すべきか否か」という二つの問題が、今、実に絶妙につながっていることがお分かりいただけると思います。

(*このビデオを下のYoutubeの日本語字幕で観ることもできますし、この下につづく記事としてもお読みになることができます。








How Gay Rights Advocates use Head Covering to Support their Position

by Jeremy Gardiner




「被り物を、ある特定の文化のためだけの慣習と解釈すること」の危険性について、今日、私はみなさんにお話したいと思います。

みなさんはお気づきになっておられないかもしれませんが、被り物のことを取り扱っている1コリント11章のこの箇所は、同性愛を肯定する人々が、自らの立場を擁護する際の、主要聖句の一つとなっているのです

これから、そういった人々がどのようにその議論を展開しているのか概観していこうと思います。

というのも、彼らは、そういった議論により、「同性愛の関係や結婚が、聖書的に許容されたものである」ということを私たちクリスチャンに納得させようとしているからなのです。

☆☆

1コリント11章で、パウロは、「自然自体が、私たちの髪の長さのことを教えている」という事に言及し、「だから、女性は被り物をすべきなのです」と主張しています。

1コリント11:14-15

自然(phusis : φύσις)自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいこと(atimia :ατιμία)であり、

女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。

なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。



ですからここでパウロは、「男性が短い髪をし、女性が長い髪をしているというのは自然なことです」と言っているわけです。

ここで皆さんに知っていただきたい大切な事は、パウロが「自然」のことを言うのに「phusis(フースィース)」というギリシャ語を使っていることです。

そして「恥ずべき」のことを言うのに「atimia(アティミア)」というギリシャ語を使っています。

さて、これからローマ1章をみていきますが、今挙げたこの2語を心に留めておいてください。

☆☆

ローマ1章で、パウロは、異性愛が自然なものであることについて説明しています。

ローマ1:1:26、27a

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき(atimia)情欲に引き渡されました。すなわち、

女は自然の用(phusis)を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然の用を捨てて男どうしで情欲に燃え、



ですから、ローマ1章と、1コリント11章の間には、完璧なパラレル関係があるわけです。

まず、

1)両方とも、使徒パウロによって書かれた書簡です。それから、

2)両方とも、「自然の用が何を教えているか」ということに言及しており、そして

3)両方とも、その逆の用のことを「恥ずべきこと」と言っています。そして、

4)全く同じあのギリシャ語2語(=「自然」を指す「フースィース」と、「恥ずべきこと」を指す「アティミア」)が両方の箇所で用いられています。

☆☆

それでは、同性愛関係を擁護しておられる方々が、こういった箇所を用いて、実際にどのように議論を展開させているのか、みなさんに見ていただくことにします。

次にご紹介するのは、レイチェル・ヘルド・エヴァンズさんのビデオの一部です。

レイチェルさんというのは、ご自分のことを「クリスチャン・フェミニスト」と呼んでおられる方であり、『一年間の〈聖書的女性像〉体験記』」という本を書いた著者として有名な人です。


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Rachel Held Evans, A Year Of Biblical Womanhood


このビデオの中で、彼女は、マシュー・ヴァインズ氏の著書『神とゲイ・クリスチャン――同性愛関係を擁護する聖書的根拠』(2015)の中で展開されている議論に触れ、次のように言っています。

マシューさんの指摘していたことの中で一番興味深かったのは――、パウロがこういった同性愛関係を「不自然なもの」と言っているというその箇所でした。


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Matthew Vines, God and the Gay Christian: The Biblical Case in Support of Same-Sex Relationships, June 16, 2015


(ローマ1章の)あの箇所で用いていた言葉は、(1コリント11章で)パウロが「祈る時に被り物をかぶっていない女性」のことを描写する時に使っていた言葉と同じなんです。

私、1コリント11章のその箇所にはかなり親しみを持っていて、、

というのも、『一年間の〈聖書的女性像〉体験記』の期間中、祈る時はいつでもベールをかぶっていたからです。


RHE20160707.jpg


だから、この二つには面白い関連性があるなあと思いました。

今日、被り物をしないで祈る女性たちのことを見て、私たちは彼女たちが「不自然にふるまっている」とは言いませんよね。

曰く、(1コリント11章の箇所では)そこになにがしかの文脈があり、なにがしかの文化的前提があり、、って皆さん言ってます。

ところが、です

それが(ローマ1章の中で)同性愛を描写すべくパウロが使ってる語となるや、

皆さん今度はなぜか急に、

「ほら、ここで使われている語をみなさい。『不自然』って書いてあります。

そうです、不自然っていうからにはやっぱり(同性愛は)不自然なんです。」

と主張が一転してしまうんです!

だから、これは本当に面白いパラレルだなあと思いました。

自分自身の経験と、それからマシューさんのこの聖句の解釈とを併せ考えてみて、そう思ったんです。



レイチェル・ヘルド・エヴァンズさんはここで私たち多くのクリスチャンの抱えている自己矛盾を指摘しているのです。

つまり私たちの多くは、髪の長さと被り物のことは、「文化的」と呼ぶ一方、

話が、異性愛のことに及ぶと、今度は「異性愛というのは、神の秩序における自然なものなんです!」と主張するという、なんとも一貫性のない見方をしているのです。


こうしてレイチェルさんは、マシュー・ヴァインズ等と共に、この矛盾点を指摘することで、

「だから、みなさん、同性愛関係を聖書的に許容されたものと捉えて構わないんですよ!」

ということを私たち視聴者に勧めているわけです。



Matthew-Vines20160707.jpg



☆☆

私もまたみなさんが、この矛盾点に気づくことを願っています。

しかし(私がレイチェルさんと違うのは)私は、あくまで神様がお造りになられた異性愛というセクシュアリティーを捨てないでほしいと皆さんに願っていることです。

そしてむしろ、「被り物は文化的なものです」という見解をぜひ再考していただき、この見解をこそ破棄していただきたいと願っています

☆☆

それでは、この問題に関し、私たちが実際、どういう位置に立っているのか、見てみることにしましょう。

みなさんへの質問 その1


「同性愛は正しいのか、それとも間違っているのか」という命題に関し、あなたは、

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)神様がそういった異性愛のセクシュアリティーをデザインされ、それに従うよう仰せられたからという神の創造をベースにその是非を考えていますか?



質問 その2


「男性が長い髪をしているのは正しいか、間違っているか」という命題に関し、あなたは

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)神様が元々、私たち男女の髪の長さをデザインされ、それに従うよう仰せられたからという神の創造をベースにその是非を考えていますか?



これらの問いに関するあなたの答えがどうであれ、一貫性を持った答えをするためには、みなさんは両方の質問に対し、同じ回答をしなくてはなりません

なぜなら、(ローマ1章と1コリント11章は)同じ記者の書いたものであり、同じ理由(=自然の用)に訴えた上で、同じ倫理的判断(=それは恥ずべきもの)を下したものであるからです。

ですから、私たちは一貫性をもたせるべく、両者を等しく取り扱わなければなりません。

ですから、みなさん。私たちはこの問題について、矛盾のない一貫した態度と見解を持とうではありませんか。


(執筆者:ジェレミー・ガーディナー)





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1コリント11章の「祈りのベールの教え」についてさらに詳しくお調べになりたい方へ



①「ないがしろにされている」教えへの道案内(1コリント11章) An Introduction To A Neglected Doctrineココ


②なぜ被り物?――理由その1 【創造の秩序】(ココ


③なぜ被り物?――理由その2 【御使いたちのため】(ココ


④なぜ被り物?――理由その3 【自然】(ココ


⑤なぜ被り物?――理由その4 【教会の慣習】(ココ


⑥福音主義教会の先生方への公開レター――1コリント11章のかぶり物に関して――(ジェレミー・ガーディナー)An open letter to complementarians about head covering (ココ


⑦「祈りのベールは文化的なもの?コリントの売春婦のことはどうなんですか?」――1コリント11章のかぶり物について (ココ


⑧「女性の長い髪=かぶり物ではないのですか?」――Ⅰコリント11章 祈りのベール問答シリーズその2 (ココ


⑨被り物と聖書解釈(Head Covering and Hermeneutics)R・C・スプロール (ココ


⑩被り物と聖書解釈―実際的な指針について(R・C・スプロール)その2 (ココ


⑪ベールの教えをするよう導かれた、福音主義教会の牧師の証し(ロビン・バッサム師、ノルウェー) (ココ


⑫姉妹のみなさんへの応援レター(パート3) パイオニアになろう!道なき道を切り開いていこう!(ココ




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彼に在って満ち足りる!―エリザベス・プレンティスの信仰詩

comment iconコメント ( -16 )

kinuko姉 こんにちは

大変興味深く記事を読ませていただきました。
祈りのベールに関して、今私の通っている教会でも、以前の教会(籍はここ)でも、母教会でも実戦している方を見たこともなければ、当時の文化的背景によるものとして片付けられていましたので、私にとっては、本当に「小さな点」でした。

ところが、今回kinukoさんが訳してくださった記事との関連で、冒頭のルターのことばが、こころに響きました。祈りのベールが軽視された結果、同性愛が肯定されるとは・・・  なんとサタンの手口は巧妙なのでしょうか。そして私自身の一貫性の無さにも気づかされた思いです。(祈りのベールは軽視して、同性愛には反対)

私たちは、純粋に神様を、イエス様を信じ、聖書を誤りの無い神のことばであると信じていても、いつのまにか「小さな点」において、自分の都合に合わせた解釈をほどこし、サタンに攻撃の糸口を提供してしまっているのかもしれないと感じました。

kinukoさん ありがとう。

 私たちが、神様の教えに関して、どんな点においても、どんなに小さな1点においても、あなたも御心を悟り、行うことができますように。






名前: エレミヤ [Edit] 2016-07-08 00:03

感謝


こんにちは!

エレミヤさん、私(私たちベールの姉妹)が、今、エレミヤさんからこのようなメッセージをいただいてどれほど励まされているか、、、言葉では表現できないほどです。約二年前に、私はこのブログの中で、日本の兄弟のみなさんに対し、次のようなお手紙を書いたんです。


2014年9月18日付

兄弟のみなさま、こんにちは。このブログを訪問してくださり、祈りのベールに関する私たち姉妹の証しを読んでくださって、本当にありがとうございました。

兄弟、これらの証しについてどう思われますか。1コリント11章(かぶり物)に関して、どのような立場に立っていらっしゃいますか。

私たちの証しは聖書的真理を反映したものであるとお考えですか。それとも違いますか。

祈りのベールを着けている私たち少数の姉妹は、兄弟、あなたの助けを必要としています

姉妹たちはこのようにして証しを書くことはできます。

しかし、それを聖書の教えとして説き、説明し、弁証してくださるのは男性である兄弟に託された使命だと私は考えています。

祈りのベールについての文献・サイトを検索しながら痛感したのが、日本語による文献・サイトの少なさでした。いいえ、正確にいえば、私は一つも見つけることができませんでした。

最近、カナダ人の若い兄弟ジェレミー・ガーディナー氏が、勇気を持ってHeadcovering movementを立ちあげてくださったことで、これまでひとりぼっちでベールを着けていた姉妹たちが多いに励まされました。

彼は論文やエッセーを通して、そういった姉妹たちを教理的にも神学的にも弁護してくださっています。

尊敬する兄弟のみなさん、もしもこれが聖書的真理でしたら、どうか主の栄光のため、私たち姉妹のため、家庭の回復のため、次世代のため、声を挙げてくださいませんか。

インターネットを通して、論文を通して、書籍を通して、忘れ去られてしまったこの教えをもう一度「復活」させてくださいませんか。

私たち日本の姉妹の精神的支柱となってくださいませんか。

このお手紙を読んでくださってありがとうございました。


http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-137.html


その後も、私たち姉妹は、2015年3月9日(http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-226.html)、そして同年9月23日にも、兄弟のみなさんに向け、同様の嘆願レターを発信しました(http://christiantestimonies.blog.fc2.com/blog-entry-436.html)。

でもなかなか日本人の兄弟のみなさまからは応答をいただくことができず、落ち込んだりしていました。その度に、さなえ姉妹が、「引き続き祈っていきましょう」と励ましてくださっていました。

ですから、エレミヤさん。なぜ私がこれほど感動しているのか、なぜこれほど喜んでいるのか、今きっとお分かりになってくださったと思います!

神様、ありがとうございます!そしてエレミヤさん、ありがとうございます!

名前: Kinuko [Edit] 2016-07-08 16:57

感謝

kinuko姉 

私は、祈りのベールを実践されようとする姉妹がおられたら、その信仰を喜び、応援することにしました。今、私の通っている教会や、身近なクリスチャンには、おられないのですが、そういう方と出会えるように祈りたいと思います。

ただし、教会の婦人が皆、そうすべきであるとまでは、今は考えられずにいます。

実はずっと以前に、求道中のある女性から、「教会のクリスチャンの女性は被り物はしなくてもいいのですか」との質問を受けたことを思い出しました。

その当時の私の回答は、第二コリント13:12「聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。」を引用して、欧米の教会では、このような挨拶が一般的かもしれませんが、日本の教会では、そのような風習はありません、握手か、お辞儀です。
聖なる口付けはしなくても、互いの再会を心から喜び、互いにいたわり、励まし、慰め、愛し・・そういった思いで挨拶をかわすことが大切だと思います。

同様に被り物について、欧米の教会では、なされているかもしれませんが、私たちの教会では誰もいません。被り物を実践しなくても、神-キリスト-男ー女という創造の秩序、権威について、男性・女性のそれぞれの役割についてを理解することが大切だと思う・・・との主旨の回答をしました。その方は、クリスチャンになりましたが、ベール姉妹にはなりませんでした。

今なら、どのように答えるか。これは、考え中です。
おそらく真っ先に、kinuko姉のブログを紹介して・・・
それから、祈りのベールを実践されている姉妹のあかしを紹介したり、少なくとも教会の中で非難されることの無いように、力をつくしたい。

私にとって「小さな点」であった、祈りのベール。この問題に向きあうきっかけをつくって下さりとても感謝しています。

kinukoさんがどこかで書いていた「熱い宗教改革がしたい」との思いとそのことばが私のこころに、ぐさーときています。


名前: エレミヤ [Edit] 2016-07-09 16:16

エレミヤさんへ

エレミヤさん、おはようございます。心のこもったメッセージありがたく読ませていただきました。「私は、祈りのベールを実践されようとする姉妹がおられたら、その信仰を喜び、応援することにしました。」という出だしの言葉を読んで胸が熱くなりました。

私はいただいたこの言葉を今週のHead Covering Movementのとりなしチームの方々にもシェアしようと思います。

各地に散らばっているベールの姉妹たちの気持ちを代弁させていただきますと、彼女たちは教会や家庭における創造の秩序(それから男性リーダーシップ)を重んじていますので、

「牧師さまは、『被り物は文化的なものであって、今日それを実践する必要はない』と考えていらっしゃるのに、私がこのように被り物をするのは、教会の秩序や権威を乱す行為になるのではないかしら?先生のご見解に『立てつく』ような行為なのではないかしら?」という心の葛藤を抱えている人が多いです。

ですから、御言葉への従順から、たとい一人であっても礼拝時に頭を覆う決意をされているのですが、やっぱり皆、内心、びくびくしています。

ですから、そういう方にとって、エレミヤさんのような「応援団」の存在は、本当に大きいと思います。

Ⅱコリント13:12の「聖なる口づけ」のところは、とても考えさせられるいいポイントですよね!実は、これについても、Head Covering and the Holy Kiss(被り物と聖なる口づけ」という考察記事がありますので、次のコメント欄にその記事の一部をちょこっと翻訳してみますね:)

それにしても、エレミヤさんは本当にいろいろな事を真摯に考え、取り組み、またこれまで多くの兄弟姉妹とさまざまな有益な交わりをしてこられた、経験豊かな方でいらっしゃることが文面から伝わってきます。

この前、「燃えるエレミヤさん」とお呼びしましたが、「燃える(fiery, passionate, fervent)」御霊がこれからもエレミヤさんの内で力強く働き、そしてエレミヤさんを通して、多くの魂がイエス・キリストの栄光をみ、救いに導かれますように。アーメン。

名前: Kinuko [Edit] 2016-07-10 15:25

「被り物」と「聖なる口づけ」


Head Covering and the Holy Kiss 


by Geremy Gardiner


http://www.headcoveringmovement.com/articles/head-covering-and-the-holy-kiss


、、R.C.スプロール師は、このことに対し、『Knowing Scripture(=聖書を知る)』の中で、次のように言っています。

もしも聖書の中のある箇所に関し、そこに(なぜそれをしなければならないのかという)理由が何も書かれていない場合、その時には、なぜそれがここで言及されているのかについて、文化的な知識を用いて考察することがあるいは可能でしょう。

しかしここでスプロール師が私たちに注意を促しているのは、その箇所について聖書記者自身が(なぜそうする必要があるのか)あくまでしっかり説明をしている場合、です。

ここにおいて、「被り物」と「聖なる口づけ」の間には、主要な相違点があると言っていいでしょう。

なぜなら、(聖なる口づけの箇所とは違い)、被り物の箇所において、使徒パウロはこの慣習について深く掘り下げた説明をしているからです。

☆☆

パウロは、(女性がベールをしなければならない理由として)、1)創造の秩序、2)自然の証し、3)御使い、のことを挙げており、それらはいずれも、文化を超越した事がらです

それとは対照的に、聖なる口づけの箇所では、その慣習について一度も説明がなされておらず、擁護もされていません。

しかし、だからといって、こういった慣習のあるものは、今日妥当であり、別のある慣習は妥当でない、、ということを私は言っているのではありません。今、答えようとしている問いはそれではないからです。

私が言いたいのは次のことです。

つまり、「被り物」と「聖なる口づけ」を一様に取り扱わないこと=一貫性のない聖書解釈、ということにはならないということです。

なぜなら、前者の慣習のみにおいて、超文化的な基盤に立った説明がなされているからです

結論として申し上げますと、被り物が文化的なものではありえない慣習である一方、聖なる口づけというのは、それが文化的でもあり得るし、そうでないかもしれない慣習であるということです。


ー以上、引用おわりですーv-22

名前: Kinuko [Edit] 2016-07-10 15:56

おまけです:) (AD155年の主日礼拝の様子と聖なる口づけ)

2世紀半ばの初代教会の主日礼拝のことを記述した貴重な記録があります。そこに聖なる口づけのことも言及されていたので、ついでにご紹介させていただきます!


紀元155年、殉教者ユスティノスは、当時のクリスチャン礼拝について次のように述べています。


「日曜日と呼んでいる日に、町に住んでいる者も地方に住んでいる者も皆、一同に会する。

そしてそこで、使徒たちの書いた覚え書きや、預言者たちの書き物が読み上げられる。

そして朗読が終わると、集会を導く責任者が、今読み上げられたすばらしい内容にぜひとも倣うよう彼らに勧告するのである。

その後、我々は皆起立し、祈りを捧げ、そしてそれが終わると、我々は聖なる口づけをかわすのだ

それから誰か一人が、パンと、水と葡萄酒の混ざった杯を、責任者の所に持ってくる。

責任者はそれを受け取ると、御子および聖霊の御名を通し、この宇宙の御父に対し、賛美と誉れをささげるのである。

それから彼はかなり長い時間を費やし、我々がこれらの賜物にふさわしく裁かれていることを感謝する(ギ:eucharistian)のだ。

責任者による感謝の祈りが捧げられ、会衆がそれに応答して「アーメン」と答えると、長老と呼ばれている人々が、そこに会する一同に、「感謝の捧げられた(eucharisted)」パンと、葡萄酒・水を手渡した。

また、当日その場に出席することができなかった信徒に対しては、長老たちがそれらを彼らの元に届けに行った。」



ー以上、引用おわりですー

☆ 彼らの礼拝の様子が生き生きと伝わってきますよね!私は個人的に、最後のセンテンス「また、当日その場に出席することができなかった信徒に対しては、長老たちがそれらを彼らの元に届けに行った」の箇所に、彼らがお互いにどれほど愛し合っていたのか、その絆の強さと愛を感じました。

名前: Kinuko [Edit] 2016-07-10 16:03

Kinuko姉

こんにちは。被り物と聖なる口付けについて、教えて下さりありがとうございました。
確信をもって語ったことが、間違っていた(正確ではなかった)ことがわかったときは、謙遜を学ぶチャンスですね。

ところで、先日、現役のエホバの証人に、皆さんはいつも服装をきちっとされているのに、何故、集会でご婦人の方は、被り物をされないのですか?と質問をしてみました。
その回答は私を驚かせました。基本的にエホバの証人は、公の集まりで、女性が祈ったり、教えたりはしないので、被り物はしないとのことでした。しかし、かつて、迫害か何かの特別な事情で、女性だけで集会をもったことがあり、その時には被り物をしたとのことでした。彼らは異端であることにはかわりありませんが、このように御ことばに忠実であろうとする信仰には、学ぶべきところがあると感じました。

あと、全然別のことなのですが、今日聖日礼拝で、となりに座った方は、新しいひとでした。その時、kinukoさんのブログのタイトル「地の果てまで福音を」が頭に浮かんできて、今私がいるところは、神様の目から見たら、地の果てかもしれないと思いました。



名前: エレミヤ [Edit] 2016-07-10 20:35

地の果てまで、、

エレミヤさん、さっそくのお返事ありがとうございます。

そして、エホバの証人の方へ直接ご質問されたとのことをうかがい、とても興味深くその箇所を読ませていただきました。そして、実際に、私もエホバの証人の方々のサイトに行って、被り物についての彼らの見解について調べてみました。

その中のお一人はブログの中で次のように書いておられました。


「コリント第一14章には、クリスチャンの集会の勧められている手順が書かれています。そこには、バプテスマを受けたクリスチャンの男性は、皆集会の際に発言して教えることができると書かれています。

聖書は会衆で女性が「話す」こと、「教える」こと、「権威」を振るうことを禁じています。(コリント第一14:34。テモテ第二2:12)バプテスマを受けたクリスチャン男性のいるクリスチャン会衆の場合は、女性は黙っているようにと書かれています。基本的には、クリスチャン会衆内では、女性は黙って聴いていた方がいいということになります。

この男女平等の時代に、女性の集会での発言を禁じるのは、時代に逆行していると感じるかもしれませんが、やはり、聖書の言葉の指示は従う時、有益なものだと考えます。

聖書の原則からいうと、やはり男性が教える立場に立つべきです。(テモテ第一2:12)

しかし、もし、その場に、バプテスマを受けた男性がいない場合は、集会を企画した女性がかぶりもの、つまりベールをして男性の頭の権に敬意を払いながら、進行役ができるでしょう。(コリント第一11:5,6)

しかし、コリント第一11章には、女性が預言したり、祈ったりする時、頭に覆うものをつけるなら、男性の頭の権を辱めないですむと書かれています。(コリント第一11:5)

それで、聖書朗読の集会で、女性が朗読や注解に加わる時には、かぶりもの、つまりベールをした方がいいと思います。」

http://blog.livedoor.jp/littleyohane/tag/%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%82%82%E3%81%AE


この中で、「つまり(集会を企画した女性は)ベールをして男性の頭の権に敬意を払いながら、進行役ができるでしょう。」という箇所の「進行役」というのが、エホバの証人の集会でどのような霊的位置づけにあるのか分からないので、ここの箇所は正直、「?」という感じですが、全体としては、ジェンダー理解という点において、彼らは、私たち福音主義クリスチャンのいう「相補的な理解」に立っていると言えるのではないかと思います。(たぶん)


(*しかし、「聖書朗読の集会をどのように開催できますか―頭の権の尊重と開催場所」http://d.hatena.ne.jp/littleyohane/20150316/1426471820というサイトでは、これらの説明に加え、「地的な希望のクリスチャン」「天的な希望のクリスチャン」という風に独特のカテゴリー分けがされてあって、ちょっと何のことをおっしゃっているのか分かりかねました。

推測ですが、「天的な」希望のクリスチャンというのは黙示録13章の「14万4000人」の枠に入れた人で、それに対し「地的な」希望のクリスチャンというのは、その枠には入れなかったけど、地上のパラダイスに入れる希望はいただいている方、、、というWatchtower独自の黙示録解釈による二分法なのかもしれないなあと思いました。)

☆☆

彼らは異端であることにはかわりありませんが、このように御ことばに忠実であろうとする信仰には、学ぶべきところがあると感じました。」というエレミヤさんの姿勢に共感します。

というのも、私自身、ギリシャの地にいて、何度も、(正教徒の方々から)「異端者扱い」を受けてくる中で、いわゆる「異端者」側の言い分というか、「≪正統派のみなさま≫へのお願い」という切実な部分を、日本にいる時より理解できるようになった経緯があるからです。

私が≪正統派≫と強く主張しておられるギリシャ正教徒のみなさんにお願いしたいのは、

「みなさん。私たちプロテスタント信者を、紋切り型に『異端』と言い切る前に、ぜひ、最低限、私たちが何を信じているのか、何を信じていないのか、、そういう基本的な所について知ってくださいませんか?

パパス(=祭司)の言う「プロテスタント像」を鵜呑みにばかりせず、少しお時間をとって、私たち側の実際の「声」にも耳を傾けてくださいませんか?」です。

☆☆

実際、私は福音派や聖霊派の方々の口から、「エホバの証人は、日傘にワンピースで気持ちが悪い」とか、「姉の部屋には、ものみの塔関係の本ばかりあって、気持ちが悪い」とか、(聖書観の正誤にまったく根拠を置かない)単なる感情的偏見に満ちた言葉を聞いてきました。

でもそれは私たちが不条理に「異端」を断定された上で、「あの信者たちは、集会中に、手を上げて賛美しているらしい。気持ち悪い。」とか「兄の部屋には、プロテスタント関係の本ばかりあって、気持ちが悪い」とか、

逆に自分たちがそういう風に言われている場面を想像すれば、[相手の信条や信仰がどうであれ]そのような偏見に満ちた言葉で他の人間のあり方を評価することの不公正さと無情さがやはり分かるのではないかと思います。

だからなおさら、私はエレミヤさんの姿勢に心を打たれました。


今私がいるところは、神様の目から見たら、地の果てかもしれないと思いました。」

アーメン。そうだと思います。今日、お隣に新しいかたが座られたのもきっと何か意味があったのだと思います。エレミヤさんを通して、文字通り、「地の果てまで」福音が伝わっていきますように!

名前: Kinuko [Edit] 2016-07-10 22:00

お返事

kinukoさんこんにちは

逆に自分たちがそういう風に言われている場面を想像すれば、[相手の信条や信仰がどうであれ]そのような偏見に満ちた言葉で他の人間のあり方を評価することの不公正さと無情さがやはり分かるのではないかと思います。

本当にそうですね。ギリシア正教徒の方との間で、経験されたお話を伺い、ハットさせられるものがありました。

また、エホバの証人のことをすぐに調べられたのですね。いつもkinukoさんのパワーには驚かされます。「進行役」というのは、私が見たところでは、集会の司会者でした。

推測ですが、「天的な」希望のクリスチャンというのは黙示録13章の「14万4000人」の枠に入れた人で、それに対し「地的な」希望のクリスチャンというのは、その枠には入れなかったけど、地上のパラダイスに入れる希望はいただいている方、、、というWatchtower独自の黙示録解釈による二分法なのかもしれないなあと思いました。)

kinukoさんの推測通りです。彼らは、年に一度記念式(聖餐式に相当)を行うのですが、14万4000人の方のみ、パンとワインにあずかり、他の方は記念式には出席するのですが、パンとワインにはあずかれません。「取って食べなさい」「飲みなさい」マタイ:26:26、28のイエス様の招きを拒絶していることになります。私も一度偵察のために記念式に一度参加してみたのですが、誰一人、パンとワインを取りませんでした。

彼らから学ぶべき点は他にも多くあると思います。寄附(献金)に対する考え方、王国会館(礼拝堂に相当)の建設について、クリスマスについて、迫害・投獄をも恐れない信仰、学び・伝道に対する熱心・・・

kinukoさん いつも感謝です。
















名前: エレミヤ [Edit] 2016-07-17 08:54

The Analogy of Faithについて

エレミヤさん、エホバの証人の記念式のことを教えてくださりありがとうございます。それにしても、エレミヤさんはカレブのように「偵察」に行かれたんですね!あちらこちらに勇ましく足を運ばれ、頼もしい限りです。

その記念式のことをお聞きして、改めて、黙示録やダニエル書の解釈の大きさに気づかされました。

宗教改革者たちの大切にしていた聖書解釈の第一原則が、The Analogy of Faithだったというのをこの前、はじめて知りました。(これは日本語で何というのでしょうか。もしご存知でしたら教えてください。)本当に毎日、学びと発見の連続です!

それによると、

1)全ての聖句は、内的調和にあり、互いに矛盾していない。
2)不明瞭な聖句は、より明瞭な聖句の光によって解釈されるべきで、その逆ではない

ということでした。

その原則で考えても、例えば、「取って食べなさい」「飲みなさい」マタイ:26:26、28という明瞭なイエス様の招きの聖句を、――より不明瞭な聖句(from 黙示録、ダニエル書)の解釈と一致させようとしているWatchtowerの、この点における解釈法は、正しくないということになりますよね?それでOKでしょうか?

名前: Kinuko [Edit] 2016-07-17 20:55

祈りのベール

kinuko姉 こんにちは

先日はエレミヤ書からのみことば、有難うございました。
今日、私の家内と教会の数名の姉妹方に祈りのベールについて、すこしだけ話し、以下の文章を書いてお渡しし、読んでもらいました。

私は以前の教会で、純粋に聖書のみことばに従いたいと願っている求道者と信仰をもって間もない姉妹方から、第一コリント11章で教えられている、女性の被り物に関する質問を何度か受けました。彼女達は、教会で被り物をしなくてもいいのか? 聖書は被り物をするように教えているのではないか? との疑問を感じたのでしょう。

その時の私たちの回答は、女性が祈りや預言をする時に被り物をすることは、当時のコリントの文化的習慣的なことであり、またコリントの売春婦は被り物をしていなかったので、その区別の意味もありました。ここの聖書箇所では、神様の創造の秩序を理解することが大切で、被り物の着用については現代に適用しなくてもかまわないと説明しました。

聖書の教えに従わなくてもよい他の例として、第2コリント13:12「聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい」をよく引用しました。欧米ではともかく、日本の教会では口づけ(接吻)によるあいさつは、文化的習慣的になじまないと説明し、同様に女性の被り物もしなくてもかまわないと考えていました。

ところが、最近この被り物(ベール)を実践されている姉妹と知り合いになりました。
日本の教会でも、ごく少数ですが、この第一コリント11章のみことばに従って、礼拝において、帽子やベールを被っておられる姉妹がおられます。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ1:17)ともあり、この姉妹たちは、通常礼拝において常時ベール(帽子)を被っています。姉妹たちは、これを「祈りのベール」と呼び、これを実践している姉妹のことを「ベールの姉妹」と呼んでいます。彼女たちは、教会や牧師や夫に否定的に言われることが多いそうで、ベールの姉妹の信仰の戦い・葛藤・悩みは、私たちの想像以上のものだと知りました。

そこで、私も第一コリント11章のみことばを再度調べてみました。多くの教会や先生方に笑われそうであり、また時代遅れと言われそうなのですが、礼拝(祈り・預言)の時に女性が被り物(ベール)をしたほうが良いのではないかと思うようになりました。

勿論これを強制することはできませんし、各々が祈りつつ判断するべきことと思います。女性が被り物をするべき理由を私なりに5つにまとめてみました。小さなことかも知れませんが、どうか祈りつつ、第一コリント11章のこの教えについて考えてみて欲しいと願います。

1)神様の創造の秩序(神―キリスト-男-女)を尊重し守るため。
パウロの論拠は、コリントという地域性、文化的習慣のことではなく、神様の創造の秩序にありました。現代社会は、フェミニズムの影響で、男女の対等が叫ばれています。キリスト教会内にもその影響が入り込み、女性が男性のようになったりしています。聖書の教える男女の差異・役割に目をとめるべきではないでしょうか。
2)御使い(天使)たちのためにそうするべきである。
 「ですから、女は頭に権威のしるしを被るべきです。それも御使いたちのためにです。」(第一コリント11:10)  私たちが、霊とまこととをもって捧げる礼拝を、天使たちも見守っているのでしょう。天使たちのために、女性は頭に権威のしるし(被り物)をするべきであるとパウロは主張しています。
3)自然自体がそうするように教えている。
 パウロは自然の秩序において、男女の髪の長さを例にあげ、自然がそう教えていると主張しています。
「自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。」(第Ⅰコリント11:14-15)
テストステロン(男性ホルモン)が男性の脱毛を促進させ、エストロゲン(女性ホルモン)が女性の髪の伸張、耐久性を促進させることは、周知のことだと思います。この神様が創造された自然が、教えているということです。
4)パウロは女性の被り物を諸教会における普遍的な習慣であると主張している。
「たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。」(第1コリ11:16)
パウロがここで主張しているのは、女性が被り物をしないというような習慣はどこにもない。神の諸教会(コリント・ビリピ・エペソ・テサロニケ・イコニウム・カイザリア・アンテオケ・・・)で実践されていることだと言っているのです。
5)同性愛を肯定するクリスチャンの主要な根拠聖句となっている事実。
第1コリント11:14-15「自然(φύσις)自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいこと(ατιμία)であり、女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。」
この自然(スーフィース)と恥ずかしいこと(アティミア)というギリシャ語がローマ1章にも使用されおり、第一コリント11章とローマ1章との関連性を思わされます。
ローマ1:1:26、27a「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき(アティミア)情欲に引き渡されました。すなわち女は自然の用(スーフィース)を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然の用を捨てて男どうしで情欲に燃え、」
同性愛肯定論者は、女が被り物をしないことを不自然であるとか、恥ずべきことであると言わないのであれば、同性愛も不自然であるとか、恥ずべきことであると言うことはできないと主張するのです。その結果同姓の結婚式の司式をする教会・牧師があらわれる時代となってしまいました。

フェミニズムがキリスト教会に入ってくる以前、19世紀以前や、20世紀前半の教会の婦人の写真や絵を調べてみたのですが、普通に被り物をかぶっている写真や絵を数多く発見しとても驚きました。イスラム(スンニ派)伝道において、ベールを被るクリスチャン姉妹がイスラム教徒の婦人のこころを開くきっかけとなった証も聞きました。教会のご婦人が、この聖書のみことばに従った証をいくつか読みましたが、そこには神様の大きな祝福があるのを知りました。この文書を読んでくださった方に神様の豊かな祝福と導きがありますように、祈ります。

kinukoさんのブログ記事を学んで、自分なりにまとめたもんぼです。感想など聞くことができたら、またコメントします。

名前: エレミヤ [Edit] 2016-07-24 16:04

Wow!

エレミヤさん!いただいたコメントを読んで、嬉しいやら驚くやら、感動するやらで、ちょっと今バタバタしています。

あっ、忘れてしまう前に、、、まずこのことをお伝えしなければなりません。カナダのジェレミー・ガーディナー師に、この前のエレミヤさんのコメントの内容をお伝えしたところ、「本当に嬉しい。励まされました!」という返答が来ました。彼も地道に種を蒔き続けているので、日本の兄弟からの肯定的な反応をうけ、とても嬉しかったのだと思います。

エレミヤさんは、本当に実践の人ですね!A Man of Action.

しかもお書きになった文書を、奥さまと教会の姉妹方に直接お渡しされたとは!!

どのような反応が返ってくるのか私もとても楽しみです。それにしても、エレミヤさんは、祈りのベールの弁証を、簡潔にしかも説得力をもってされていますね。もしよろしければ、お書きになられたこの文章を、記事の中で引用してもよろしいでしょうか?


名前: Kinuko [Edit] 2016-07-24 22:46

kinukoさん

お役に立つなら是非引用して下さい。

名前: エレミヤ [Edit] 2016-07-25 05:20

エレミヤさんへ

ありがとうございます!!

名前: Kinuko [Edit] 2016-07-25 05:22

祈りのベール

kinukoさんにどうしてもお伝えいたしたくコメントおくります。

今日、私は、礼拝の司会の奉仕をさせていただいたのですが、本当に驚いたことがありました。

以前、11.の文書をお渡しして読んでいただいていた姉妹ふたりが、被り物(帽子)をして、礼拝に参加されておりました。おふたりとも海外で奉仕をされたことのある方です。普段は別の教会に行っておられる方ですが、その教会でもこっそり、被り物をしているとのこと。(ひと方はブラジル、ひとかたはアメリカ)。今日はとても寒かったので、自然な感じでかぶることができたとおっしゃっていました。周囲を気にしながら、それでも神様のみことばに従がおうとする姉妹の信仰にとても励まされ、私自身もっと主に従っていきたいと思わされました。

巡礼者の小道もすこしずつですが、読ませていただいています。

名前: エレミヤ [Edit] 2017-01-08 16:28

Re: 祈りのベール

エレミヤ兄へ、

本当にうれしい知らせをありがとうございます。神様のなさっておられる働きはすばらしいと思います。お二人の姉妹は、こっそり被り物をされているとのこと。きっと肩身の狭い思いをされていることでしょう。次回、お会いした時に、ぜひ私の方からもよろしくお伝えください。

それから、もしも益になるのでしたら、その二人の姉妹の方々に、次のカテゴリーのページ(「1コリント11章「祈りのベール」弁証)のリンクをお伝えください。この中の多くは、「地の果てまで福音を」からの再掲載ですが、「巡礼者の小道」の方では、もう少し、包括的な枠組みの中で、他のカテゴリーとも関連させながら、「祈りのベールの弁証」を載せていこうと思っています。

1コリント11章「祈りのベール」弁証
http://japanesebiblewoman.hatenadiary.com/archive/category/%EF%BC%91%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%EF%BC%91%EF%BC%91%E7%AB%A0%E3%80%8C%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%8D%E5%BC%81%E8%A8%BC

エレミヤ兄とも以前、話し合った通り、やはり、これから同性愛の是非をめぐるジェンダー論議が激化していく中で、祈りのベールを「創造」で解釈するか、それとも「文化的解釈」で切り抜けるか、、ここが一つの正念場・岐路になっていくのではないかと思います。

それから、今、三位一体論における「相互恭順」説とフェミニズムに関する記事を翻訳しています。

「三位一体の中で、御父もまた御子に恭順(submit)しているのです。ですから、御子との関係において、御父に固有の権威があるわけではないのです」という主張はどうでしょうか。【三位一体論とフェミニズム】前篇
http://japanesebiblewoman.hatenadiary.com/entry/2017/01/08/204744

私は涙を流しながらこれらの記事を訳していっています。これまで、2000年以上に渡って、三位一体論は論議され、たくさんの血が流されてきたと思いますが、それでも人々の底辺には、生ける神に対する畏敬の念というのが共通の基盤としてあったのではないかと思います。

でも現在打ち出されている種類の神論というのは、本当に恐るべきものだと思います。タイプする手が震える時もしばしあります。私たちの神は生きておられ、忍耐深く憐れみに満ちた方ですが、ご自身に対するこのようなレベルでの曲解・侮辱の数々が、今、キリスト教会内で出されているだけでなく、多くの人々からむしろ好感をもって支持されているという現状に、私たちの神は悲しまれ、また憤っておられると思います。しかしやがて主ご自身、神の義を顕されると信じます。

イザヤ59:13-21

13私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。
14 こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。

15 そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。
主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。

16 主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。

17 主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。

18 主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。

19 そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。

20 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――主の御告げ。――

21 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」と主は仰せられる。

「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」と主は仰せられる。


私はイザヤ書のこの箇所を読んだ時に、人間側のすさまじい反逆の実態と共に、主ご自身の御手の確かさ、力づよさを感じ、非常に心強められました。「主が」とか「わたしが」という神が主語の聖句がこの箇所には至るところに見い出され、「アルファであり、オメガであり」、歴史の主権者であられ、すべてを最終的に勝利に導き、完成させてくださる主の主権を仰ぎ見、この方に賛美と栄光と誉をささげます!

エレミヤさん、これからもよろしくお願いいたします。

名前: Kinuko [Edit] 2017-01-08 22:33

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