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Martin Luther


もし私がありったけの声で明瞭に神の真理を公言しているとしても、その小さな点――そう、今まさに、この世と悪魔が攻撃を加えているそのささいな一点――について触れるのを避けているなら、私はキリストを告白していることにはならない。

そう、たとえ(その他のことで)どんなに大胆に告白しているとしてもダメなのだ。

戦いが激しさを増す所において、兵士の忠誠心は立証される

そして全ての戦場において確固とした態度をとっていても、もし彼がその一点において尻込みしているなら、それは逃げであり恥辱であるにすぎない。

マルティン・ルター (私訳)



先日、ある方に、(祈りのベールに関するVTRの中で)次にはどのビデオを翻訳したらいいでしょう、ということをお訊きし、三択のチョイスをお出ししたところ、その方は、次のVTRを選ばれました。

How Gay Rights Advocates use Head Covering to Support their Position

いかにして同性愛を肯定する方々は「1コリント11章の被り物の聖句」を自らの立場の擁護のために用いているのでしょうか?



このビデオの字幕を訳しながら、私は改めて、今現在、福音主義教会がジェンダー問題で岐路に立たされていることを痛感しました。

その意味でも、この方が上のVTRを選んでくださったことは、神の摂理だったと感じざるをえません。

これを観ていただくと、「クリスチャンは同性愛をどう考えるべきなのか」という問いと、「1コリント11章の祈りのベールを実践すべきか否か」という二つの問題が、今、実に絶妙につながっていることがお分かりいただけると思います。

(*このビデオを下のYoutubeの日本語字幕で観ることもできますし、この下につづく記事としてもお読みになることができます。








How Gay Rights Advocates use Head Covering to Support their Position

by Jeremy Gardiner




「被り物を、ある特定の文化のためだけの慣習と解釈すること」の危険性について、今日、私はみなさんにお話したいと思います。

みなさんはお気づきになっておられないかもしれませんが、被り物のことを取り扱っている1コリント11章のこの箇所は、同性愛を肯定する人々が、自らの立場を擁護する際の、主要聖句の一つとなっているのです

これから、そういった人々がどのようにその議論を展開しているのか概観していこうと思います。

というのも、彼らは、そういった議論により、「同性愛の関係や結婚が、聖書的に許容されたものである」ということを私たちクリスチャンに納得させようとしているからなのです。

☆☆

1コリント11章で、パウロは、「自然自体が、私たちの髪の長さのことを教えている」という事に言及し、「だから、女性は被り物をすべきなのです」と主張しています。

1コリント11:14-15

自然(phusis : φύσις)自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいこと(atimia :ατιμία)であり、

女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。

なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。



ですからここでパウロは、「男性が短い髪をし、女性が長い髪をしているというのは自然なことです」と言っているわけです。

ここで皆さんに知っていただきたい大切な事は、パウロが「自然」のことを言うのに「phusis(フースィース)」というギリシャ語を使っていることです。

そして「恥ずべき」のことを言うのに「atimia(アティミア)」というギリシャ語を使っています。

さて、これからローマ1章をみていきますが、今挙げたこの2語を心に留めておいてください。

☆☆

ローマ1章で、パウロは、異性愛が自然なものであることについて説明しています。

ローマ1:1:26、27a

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき(atimia)情欲に引き渡されました。すなわち、

女は自然の用(phusis)を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然の用を捨てて男どうしで情欲に燃え、



ですから、ローマ1章と、1コリント11章の間には、完璧なパラレル関係があるわけです。

まず、

1)両方とも、使徒パウロによって書かれた書簡です。それから、

2)両方とも、「自然の用が何を教えているか」ということに言及しており、そして

3)両方とも、その逆の用のことを「恥ずべきこと」と言っています。そして、

4)全く同じあのギリシャ語2語(=「自然」を指す「フースィース」と、「恥ずべきこと」を指す「アティミア」)が両方の箇所で用いられています。

☆☆

それでは、同性愛関係を擁護しておられる方々が、こういった箇所を用いて、実際にどのように議論を展開させているのか、みなさんに見ていただくことにします。

次にご紹介するのは、レイチェル・ヘルド・エヴァンズさんのビデオの一部です。

レイチェルさんというのは、ご自分のことを「クリスチャン・フェミニスト」と呼んでおられる方であり、『一年間の〈聖書的女性像〉体験記』」という本を書いた著者として有名な人です。


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Rachel Held Evans, A Year Of Biblical Womanhood


このビデオの中で、彼女は、マシュー・ヴァインズ氏の著書『神とゲイ・クリスチャン――同性愛関係を擁護する聖書的根拠』(2015)の中で展開されている議論に触れ、次のように言っています。

マシューさんの指摘していたことの中で一番興味深かったのは――、パウロがこういった同性愛関係を「不自然なもの」と言っているというその箇所でした。


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Matthew Vines, God and the Gay Christian: The Biblical Case in Support of Same-Sex Relationships, June 16, 2015


(ローマ1章の)あの箇所で用いていた言葉は、(1コリント11章で)パウロが「祈る時に被り物をかぶっていない女性」のことを描写する時に使っていた言葉と同じなんです。

私、1コリント11章のその箇所にはかなり親しみを持っていて、、

というのも、『一年間の〈聖書的女性像〉体験記』の期間中、祈る時はいつでもベールをかぶっていたからです。


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だから、この二つには面白い関連性があるなあと思いました。

今日、被り物をしないで祈る女性たちのことを見て、私たちは彼女たちが「不自然にふるまっている」とは言いませんよね。

曰く、(1コリント11章の箇所では)そこになにがしかの文脈があり、なにがしかの文化的前提があり、、って皆さん言ってます。

ところが、です

それが(ローマ1章の中で)同性愛を描写すべくパウロが使ってる語となるや、

皆さん今度はなぜか急に、

「ほら、ここで使われている語をみなさい。『不自然』って書いてあります。

そうです、不自然っていうからにはやっぱり(同性愛は)不自然なんです。」

と主張が一転してしまうんです!

だから、これは本当に面白いパラレルだなあと思いました。

自分自身の経験と、それからマシューさんのこの聖句の解釈とを併せ考えてみて、そう思ったんです。



レイチェル・ヘルド・エヴァンズさんはここで私たち多くのクリスチャンの抱えている自己矛盾を指摘しているのです。

つまり私たちの多くは、髪の長さと被り物のことは、「文化的」と呼ぶ一方、

話が、異性愛のことに及ぶと、今度は「異性愛というのは、神の秩序における自然なものなんです!」と主張するという、なんとも一貫性のない見方をしているのです。


こうしてレイチェルさんは、マシュー・ヴァインズ等と共に、この矛盾点を指摘することで、

「だから、みなさん、同性愛関係を聖書的に許容されたものと捉えて構わないんですよ!」

ということを私たち視聴者に勧めているわけです。



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☆☆

私もまたみなさんが、この矛盾点に気づくことを願っています。

しかし(私がレイチェルさんと違うのは)私は、あくまで神様がお造りになられた異性愛というセクシュアリティーを捨てないでほしいと皆さんに願っていることです。

そしてむしろ、「被り物は文化的なものです」という見解をぜひ再考していただき、この見解をこそ破棄していただきたいと願っています

☆☆

それでは、この問題に関し、私たちが実際、どういう位置に立っているのか、見てみることにしましょう。

みなさんへの質問 その1


「同性愛は正しいのか、それとも間違っているのか」という命題に関し、あなたは、

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)神様がそういった異性愛のセクシュアリティーをデザインされ、それに従うよう仰せられたからという神の創造をベースにその是非を考えていますか?



質問 その2


「男性が長い髪をしているのは正しいか、間違っているか」という命題に関し、あなたは

1)文化的解釈をベースに、その是非を考えていますか?それとも、

2)神様が元々、私たち男女の髪の長さをデザインされ、それに従うよう仰せられたからという神の創造をベースにその是非を考えていますか?



これらの問いに関するあなたの答えがどうであれ、一貫性を持った答えをするためには、みなさんは両方の質問に対し、同じ回答をしなくてはなりません

なぜなら、(ローマ1章と1コリント11章は)同じ記者の書いたものであり、同じ理由(=自然の用)に訴えた上で、同じ倫理的判断(=それは恥ずべきもの)を下したものであるからです。

ですから、私たちは一貫性をもたせるべく、両者を等しく取り扱わなければなりません。

ですから、みなさん。私たちはこの問題について、矛盾のない一貫した態度と見解を持とうではありませんか。


(執筆者:ジェレミー・ガーディナー)





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1コリント11章の「祈りのベールの教え」についてさらに詳しくお調べになりたい方へ



①「ないがしろにされている」教えへの道案内(1コリント11章) An Introduction To A Neglected Doctrineココ


②なぜ被り物?――理由その1 【創造の秩序】(ココ


③なぜ被り物?――理由その2 【御使いたちのため】(ココ


④なぜ被り物?――理由その3 【自然】(ココ


⑤なぜ被り物?――理由その4 【教会の慣習】(ココ


⑥福音主義教会の先生方への公開レター――1コリント11章のかぶり物に関して――(ジェレミー・ガーディナー)An open letter to complementarians about head covering (ココ


⑦「祈りのベールは文化的なもの?コリントの売春婦のことはどうなんですか?」――1コリント11章のかぶり物について (ココ


⑧「女性の長い髪=かぶり物ではないのですか?」――Ⅰコリント11章 祈りのベール問答シリーズその2 (ココ


⑨被り物と聖書解釈(Head Covering and Hermeneutics)R・C・スプロール (ココ


⑩被り物と聖書解釈―実際的な指針について(R・C・スプロール)その2 (ココ


⑪ベールの教えをするよう導かれた、福音主義教会の牧師の証し(ロビン・バッサム師、ノルウェー) (ココ


⑫姉妹のみなさんへの応援レター(パート3) パイオニアになろう!道なき道を切り開いていこう!(ココ




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