詩 『私の喜び』



青空が暗黒の雲で覆われ、

私が見捨てられてしまったようであるとき



私の喜びは 小さく 隠れたままで生きることです。


最愛のイエスのお望みをはたすこと

それが 私の喜びです。



私は何も恐れずに 進んでいきます

夜も 昼も どちらも好きです。



イエスの存在まで疑うときこそ

私の愛のしるしをふやします。





016902489c651d87750eaaec8073902b20160531_20160709012317464.jpg

1897年が明け、テレーズは24歳の誕生日を迎えました。

病状が悪化し、彼女は姉のポリーヌに、「私はきっと今年中に死ぬと思います」と言いました。

1月21日に、テレーズはポリーヌの祝いにちなんで、この『私の喜び』と題する信仰詩を贈りました。

しかし、この時期、彼女の霊は、暗い夜にひとりうち置かれ、信仰の過酷な試練の道の途上にあったのです。

この詩を姉に贈った同じ日に、テレーズは一修道女に、次のように心を打ち明けていることからも、その苦悶が読み取れます。

「私は永遠のいのちが信じられません。この世の朽ち果てる生命のあとには、もう何もないように思えます。

私にとっては、すべてが消え去りました。私が落ち込んでいる暗闇を言い表す言葉もないのです。私には、もう愛しか残っていません。」



もし、主が長く生きることを望まれるならば、そのように生きたい。もし、主を楽しませることになるなら、主に従って天国に行きたい。そう歌ってから、テレーズは次の言葉で詩を結んでいます。



天の御国の愛の火が、たえまなく私を焼き尽くしています。

死ぬこと 生きること それは問題ではありません。

イエスよ、私の喜び それは、あなたをお愛しすること、、、




伝記記者の菊地多嘉子氏は、こういったテレーズについて次のように書いておられます。


目には見えないが、暗い夜のただなかに臨在するイエスこそ、テレーズの唯一の喜びなのである。

信仰の過酷な試練の道の途上で、自分が味わう苦しみを、すべての兄弟姉妹の幸せのために捧げたいと、テレーズは切に願い続ける。



☆☆

むしられたばら


ばらが修道院の庭を装う五月に、テレーズは一つの詩をつくりました。

アンリエットという元院長の依頼に応じるためにです。

アンリエット修道女は当時、重い病に侵される中で死を恐れ、すべてのことに懐疑的になっていました。

彼女としては、このような否定的な詩の題をテレーズに送りつけることによって、ある意味、彼女に(そしておそらく神様に対し)挑戦の意を込めていたのかもしれませんが、テレーズはやさしくこの依頼に応えました。



詩 『むしられたばら』


無造作に、
気どることなく、

全くありのままに、
あますところなく自分を捧げ尽くす。


苦しみの人イエスの十字架に向かう足元に敷かれて。


イエスよ
あなたの愛のために

私は自分のいのちも 
前途も 費やし尽くしてしまいました。


人の目には 色褪せ しぼんでしまったばらのように
私は 死なねばなりません!


あなたのために死ぬ。御子よ、至上の美よ。

ああ なんという幸いでしょう。


自分をむしりとりながら 
あなたへの愛を証ししたい。


私の宝 イエスよ、

この世では ひそかに生きたい。


そして カルワリオへの丘を登る あなたの最後の歩みを

ばらのはなびらで やわらげたいのです。




この詩を受け取ったアンリエット元院長は、「上出来だけど、ただ未完成です」と言ってきました。

彼女曰く、「死のとき、神はこの『むしりとられたばら』のはなびらを拾い集めて、永遠に輝く美しいばらに作りかえてくださる」という一節を加えるべきだというのです。

しかし、テレーズはこれに応じませんでした。

「アンリネット修女は、たりないと思われる部分をご自分でお作りください。私は何もつけ加えません。神様をお喜ばせするために、永遠に摘み取られたままでありたい、ただそれだけです!」

☆☆

「小さい道」の発見


小さいノートももう終わりに近い。

えんぴつを持つ力さえ尽き果てようとしていたテレーズは、手記の中で、「神さまが自分になさった最も偉大なみわざ、それは『私の小ささ、無力さを示されたことです』」と語っています。

おお、イエス様!私を天にまで上らせるエレベーター。それらはあなたのみ腕なのです。

ですから、私は大きくなる必要はありません。かえって、ますます小さくならなければなりません。

神様!あなたがしてくださったことは、私の期待をはるかに超えています。

それで、私はあなたのあわれみを歌いたいのです。



「うれしいことに、主をお愛しすると心は大きく広がり、利己的でなんの実も結ばない愛にこり固まっている心とは比較にならない大きな愛情を、親しい人々に注ぐことができます。」とテレーズは言います。

一歩ごとにつまずき、転び、また自分の十字架を弱々しく担うことしかできなくても、この無力さを認め、これを愛してください。そうすれば、恵みによって英雄的な行為を意気揚々と果たし、自己満足感を満喫するよりも、もっと多くの益をえるでしょう。



福音書に目を向けさえすれば、すぐにイエス様のご生活の香りがして、どちらの方向に走ればよいかがわかります。私が飛んでいくのは上席ではなく、末席です。そう、私は感じています。



ピラトはイエス様に真理を聞くことを拒みましたが、私は決してそのようにはしませんでした。いつも神様に、『私はあなたのお言葉をうかがいたいのです。私が謙虚に、真理とはなんでしょうかと申し上げるとき、どうぞ、お答えください。そして、物事をありのままに見、何にも目をくらまされることのないようにしてください』と申し上げています。



、、『見せかけ』は大嫌いです。

〔死の当日に院長に答えて〕「はい。私は真理以外には、何も求めなかったと思います。」



それでは、最後に、「愛のかまど」に伴わせてくださるイエス様への希望を歌った彼女をメッセージをご紹介して、この記事を終わりにさせていただきたいと思います。




最愛の「鷹」よ、

いつの日か、きっとあなたは小鳥を迎えに来られ、

愛のかまどに伴ってくださるでしょう。



そして、小鳥がいけにえとして身を捧げた愛の燃える淵に、

永遠に沈めてくださるでしょう。



あなたの慈しみを言い表すことはできません。




万が一、私よりももっと弱い、

もっと小さい魂をお見つけになることがあれば、



その魂が信頼して、あなたのあわれみに身をゆだねる限り、

かならず、さらに豊かな恵みでお満たしになるでしょう。







スポンサーサイト

戦いの中にあって―エミー・カーマイケルの信仰詩

どのようにして同性愛を肯定する方々は「1コリント11章の被り物の聖句」を自らの立場の擁護のために用いているのでしょうか?――福音主義教会に突きつけられる「ジェンダー挑戦状」と私たちの応答

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。