Francis A. Schaeffer, Escape From Reason, Chapter 7より



よく私は人に訊かれる。

「あなたは奇抜で変わった人たちとも、結構うまくコミュニケーション取れてますよね。その人たちはキリスト教を受け入れていないのかもしれませんが、それでも、あなたの語りかけは、なんというか、彼らにちゃんと『通じている』ようなのです。どうしてでしょうか?」と。

そういう風な「通じ方」を可能にしている理由にはいろいろあると思うが、一つには、おそらく、(根拠を得ずとも)「とにかく信じよ」というスタンスではなしに、彼らに聖書的システムやその真理について考えてもらうよう努めているからかもしれない。

☆☆

シェーファー自身の証し


というのも、自分自身、そういう経過を通って、クリスチャンになったのだ。

救われる前、私は長い間、リベラル教会に通っていた。

この教会の講壇で語られていることから判断して、私は自分の行きつける唯一の結論は、「不可知論か、あるいは無神論に違いない」と思うようになっていった。

自由主義神学を基盤として考えた時、そういった結論以上にロジカルな帰結はないと私は思った。

こうして私は不可知論者になった。

そしてその後、当時読んでいたギリシャ哲学と対照すべく、はじめて聖書を読んでみようと思い立ったのだ。

それは(長年キリスト教だとばかり思い込んできた)「キリスト教」を捨てた自分としては、それなりに誠意ある行為ではあった。


そして、それから6カ月ほどした後、私はクリスチャンになった。

なぜなら、自分の抱えていた諸問題に対し、聖書が提示している答えはそれだけでもう十全性があり、しかも非常にわくわくするような仕方でそれは十全性を持していたからである。



「信仰の飛躍」メンタリティー
 

現代人は、真理に関し、ある新しい態度をとるようになった。

そしてこの現象が――もっとも明瞭かつ悲劇的な形で――浮き彫りになっているのが、現代神学それ自身だろう。

こういった新しい態度がどのようなものであるかを考察するべく、まずは真理についての別の二つの考え方(概念)を見てみることにしよう。

一つ目は、ギリシャ人の真理に対する考え方、そして二つ目は、ユダヤ人のそれである。

往々にして、ギリシャ人の真理の概念は、うまくバランスの取れた形而上学的なシステムであった。

そしてそのシステムはあらゆる点において、それ自身が調和を保っていた。

それに対し、ユダヤ的および聖書的真理のコンセプトは、それとは異なっていた。

しかしそれは、ギリシャ人の保持していた合理的概念が、ユダヤ人にとって重要ではなかったという意味ではない。

なぜなら、旧約も新約も、理知的に議論し得るという基盤の上に機能しているからである。

しかしながら、ユダヤ人の精神は、それ以上のなにか――つまり、より確固としたなにか――を必要としていたのだ。

その確固たる基盤というのが、実在の歴史に対する彼らの求めであり訴えであった。

然り。書き記され、歴史として議論され得る、空間・時間の中における歴史である。註1)

☆☆

現代における真理観は、ギリシャ的概念およびユダヤ的概念のはざまに、楔(くさび)を打ち込んだ。

しかも、誤った点において打ち込んでしまっているのである。

現代的見解の人々の脳裏には、

1)ギリシャ的=合理的真理
2)ユダヤ的=実存主義

という構図が出来上がっているのだ。

そうした上で、彼らは聖書を自分たちのものとして主張しようとしている。これは独創的な考え方ではあるが、全く間違った捉え方だと言わねばならない。

ユダヤ的な考え方は、時空の歴史(space-time history)に根付いているという点で、ギリシャ的なそれとは分け隔てられている

それは単なるバランスの取れたシステムというわけではないのだ。

しかしユダヤ的および聖書的真理の概念は、現代的コンセプトよりは、むしろギリシャ的コンセプトの方にずっと近いだろうと思う。

なぜなら、それは、人間の「人間性("mannishness")」の中に合理性を求める願いがあるという事実を否定していないからである。註2)



Francis A. Schaeffer, Escape From Reason, Chapter 7
私訳


註1)


現代人の絶望と、「信仰の飛躍」メンタリティーについて


シェーファーは、現代のそういった流れの始源を、デンマークの哲学者ゾーレン・キルケゴールに帰し、次のように言っています。

「絶望の線」という段階は、私たちをキルケゴール(1813-1855)および信仰の飛躍へと導いた。

キルケゴールの「飛躍」がなしたものは何かといえば、それは、調和と一致に対する希望をもろともに取り去ってしまったことである。そして彼以後、私たちの思考は次のようになっていった。


楽観主義というのは、非合理的なものである。
――――――――――――――――――――
あらゆる合理性=ペシミズム(悲観主義)



この二つの領域をつなげようという希望は、この時点で消え去ったしまったのだ。

換言すると、この線(=絶望の線)の下にある領域では、理性を基盤とし、人としての人間は死んでいるのである。

そこにおいて人間存在には何ら意味がなく、何ら目的がなく、何ら重要性もないのである。

人としての人間に関していえば、ただそこにペシミズムがあるだけである。

その一方、線の上の方の領域では、非合理的飛躍をベースに、非合理的な信仰があり、それが楽観主義をもたらしている。

これが現代人の抱える全的パラドックス(total dichotomy)である。


Francis.A.Schaeffer, Escape From Reason, Chapter 4


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キルケゴール


キルケゴール以後、そこからさらに二つの拡張がありました。

一つは世俗実存主義、そしてもう一つは宗教的実存主義の流れです。

前者の代表格としては、フランスのサルトル(1905-1980)とカミュ(1913-1960)、スイスのヤスパース(1883-1969)、そしてドイツのハイデッガー(1889-1976)。

一方、後者の代表格としてシェーファーは、カール・バルト(1886-1968)の名を挙げています。

*現代フェミニズムの理論的創始者であり、先駆者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908-1986)が、サルトルの愛人であり、世俗実存主義の支持者であった事実は、福音主義教会におけるフェミニズム問題を考える上で決して無視することのできない大切なポイントだと思います。


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サルトルとボーヴォワール


つまり、「福音主義」と、「フェミニズム」は、それぞれどこに源流を持ち、両者がはたして融合可能なものなのかどうか、という問題を考える上で、とても大切だと思います。




註2)

ギリシアの《非歴史性》と、ユダヤの《歴史性》について、ロシアのキリスト教思想家であるベルジャーエフも次のような興味深い指摘をしています。


ヨーロッパの認識の根柢には、つぎの二つの原理があることが、言われなければならない。

ギリシアの原理とヘブライの原理である。

この二つのものの結合からキリスト教世界は形成されたのであり、、

歴史を研究する何びとも知っていることは、ギリシア文化、ギリシア世界、ギリシア的意識にとって歴史意識というものが欠如していたことである

歴史的経過の観念は、ギリシアの世界には存在しなかった。最大のギリシア哲学者たちも、歴史的経過の意識にまで達することができなかった。

プラトンにおいてもアリストテレスにおいても、最大のギリシア哲学者の何びとにおいても、歴史の概念を見い出すことができない。

ギリシア人は世界を、完成した調和的なコスモス(世界)として美的に把握した。、、彼らは万有を、コスモスの均整を、古典的に観照するという仕方で、静的に把握した。

、、、彼らの考えに従えば、歴史には出発も、終末もなかった

かれらの考えではいっさいが反復であった。

いっさいが永遠の循環の中にあった。

永遠回帰の中にあった。

この循環運動は、ギリシア的世界観の特徴をなすものである。

一方、《歴史的なもの》の観念は、ヘブライ人によって世界史の中に導き入れられた

そしてユダヤ民族の根本的使命こそ、ギリシア的意識に映じたあの循環的運行とは異なって、人間精神の歴史の中に、あの歴史的経過の意識を導入することであった、と私は信じている。

古代ヘブライの意識では、かの過程はつねにメシアニズムと結びつき、メシア的観念と結びついていた。

ヘブライ的意識は、ギリシア的意識とは反対に、つねに来たらんとするもの、未来に向けられていた


べルジャーエフ著 『歴史の意味』、p39-41





おまけです

いかにして現代人は誕生したのか? by シェーファー(約1分30秒)

*海の砂浜に立ち、棒で図をかきながら私たちに説くシェーファーの姿がなんともいえず「この世ばなれしていて」、その独特の風情がいいなあと思いました。








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