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戦争や平和に関することで、ある読者の方が私の立場や考えについて訊いてこられました。自分自身、今も模索中ですが、できる限り誠意を尽くして、現段階における私の理解をみなさんに共有できたらと思っております。

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このテーマに関し、2016年7月現在の時点で、私は、福音右派(「正義の戦争」擁護派)の立場にも立っておらず、リベラル左派(「(政治的)平和運動」)の立場にも立っていません。

なぜ私が福音右派「正義の戦争」擁護の立場に立っていないかの理由については次の記事およびコメント欄をご参照ください。


「敵を愛しなさい」というイエスの御言葉は「私的な自分」には適用されても「公的な自分」には適用されない?

クリスチャンの私が兵士として人を殺すことは「個人」の行為ではなく「国」の行為?




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なぜリベラル左派の方々の推し進めておられる「平和運動」に同意できないか?


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クリスチャン・トゥデイ紙:参院選で「戦争法に賛成する議員には投票しない」ことを呼び掛け 宗教者・信者全国集会(2)

「平和を実現するキリスト者ネット」の平良愛香牧師は、「宗教者は理想を信じることができます。宗教者が理想を信じないで、宗教者が夢を見ないで、誰がやるのでしょう? 私たちは信仰を持つ中で、絶対この世の中は良くなると信じて、祈り、語り、行動している」と持論を展開。ー記事抜粋ー




【同意できない理由】


1)「何をもって《平和》と考えるか」という点、それから、罪の本質、悪の本質について、私は、リベラル左派の方々と意見を異にしているからです。


ローマ5:9.10a

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、、

ローマ5:1

信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。



私は個々のリベラル左派の方々の真摯な取り組みに敬意を払っております。

しかしながら、聖書が偽りのない神の御言葉であることを本気で信じるなら、私たちは、「信仰によって義と認められていない」人々が、主の目に未だ「神との平和を持っておらず」(1節)、神の「敵」(10節)であり、「生まれながら御怒りを受けるべき子である」(エペソ2:3a)というまことに峻厳な聖書の現実と人間観を直視しなければならないのではないかと考えています。

また、聖書に啓示されている罪と悪の本質を考えたとき、私は「絶対この世の中は良くなると信じる」という上述の牧師さんの信条に同意することができません。(マタイ24章、Ⅱテモテ3章)

1ヨハネ5:19

私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています



従って、私の理解では、聖書の「平和」は、リベラル左派の方々の多くが推進しておられる「他宗教間合同エキュメニカル平和運動」とは一致していないと考えています。

聖書のいう平和は、イエス・キリストを通してのみ実現されるものであり(エペソ2:14)、組織やデモを通しては実現されないと考えています。



2)ローマ13章の聖句が、キリスト者による反政府的諸活動(一国の統治者に対する誹謗中傷といった言動も含めて)を禁じていると理解しているからです。


パウロがこの手紙を書いた時、時の権力者は、あの極悪非道なローマ皇帝ネロでした。

シェンキェーヴィチの有名な歴史小説『クオ・ワディス』の中でも、残酷きわまりない方法でキリスト教徒を迫害しているこの狂人皇帝のあり様が生々しく描き出されています。

また一説によると、パウロ自身も、ネロの治世に、この「右翼独裁政権」の手によって殺され、殉教したといわれています。

驚くのは、そういう不条理きわまりない状況下にあったパウロが、時の権力者であり支配者のことを「神のしもべ a servant of God」(ローマ13:4)と呼び、「彼は無意味に剣を帯びてはいない」(4節)と言っていることです。

彼や当時のクリスチャンの置かれていた悲惨な状況を考えれば、彼が次のように呼びかけるのは私たちにとってむしろ「自然な」ことのように思われます。

「みなさん、現政権の暴政を許していてはなりません。

私たちは『平和をつくる者』(マタイ5:9)として召されているのです。

ですから今こそ、平和を実現するネットワークをつくり、この目的実現のために、キリスト教徒もユダヤ教徒もストア派もパリサイ派もユダヤ主義者も、『今こそ宗教者・信者として』一致団結し、ローマの街道を行進しようではありませんか?

これ以上の迫害行為を許していてはなりません。」



しかしパウロはそのような提言はせず、むしろ次のように言っています。

ローマ13:1、2

人はみな、上に立つ権威に従うべきです

神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます」(1、2節)

*1ペテロ2:13-17も。



(宗教改革の流れでも、この章の解釈をめぐってさまざまな意見が生じ、「かくかくしかじかの条件の元では国民は、支配者や現政権に対し(武力行使も含めた)抵抗運動をすることが神の目に許されている」というresistance theory(抵抗理論)が次第に理論化され、正当化されていったという経緯があると思いますが(註1)、私自身は、このような聖書解釈および理論に疑問を感じています。)

また、私たちクリスチャンは一国の統治者や政権を批判したり中傷誹謗したりするのではなく、むしろ、彼らのために執り成し祈るよう聖書の中で勧告されていると思います。

1テモテ2:1

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。




註1)

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J. H. Burns , The Cambridge History of Political Thought 1450–1700,
Chapter 7 - Calvinism and resistance theory, 1550–1580, pp. 193-218

(J.H.バーンズ共著 『ケンブリッジ政治思想史―1450年~1700年まで』
第7章 カルヴィニズムと抵抗理論(1550-1580年))


この章の要約 (翻訳抜粋)

宗教改革の第二世代は、ジョン・カルヴァンの弟子たちで占められていた。

たしかに、カルヴァンはチューリッヒのツヴィングリ、ストラスブルグのマーティン・ブシャー(Bucer)等によってすでに敷かれていた礎石の上に改革を推し進めていた、数ある有能な神学者の一人に「過ぎなかった」ともいえよう。

しかし、彼がこの宗教改革運動内で果たした功績は――支持者、反対者双方の間にあって――絶大なものであったため、この運動に追従する人たちを「カルヴィニスト」と総称して差し支えないだろうと思う。

プロテスタンティズムのこの新型は、今日の南ドイツやスイスに散在していた多数の自由都市の間にひろがっていった。

そしてこの運動は同時に、非常に軍事主義的にもなっていく傾向にあり、その目的を達成するためには、政治的・軍事的力を行使することもいとわなかった。

そして、こういった軍事的態度は、カルヴィニストたちをして、政治的抵抗を正当化する諸理論を発展せしめたのである。


ー抜粋おわりー


*この抵抗理論をさらに体系化していったカルヴァンの後継者テオドラ・ベザーの聖書解釈や思想についてお調べになりたい方へ。

Theodore Beza on Rights, Resistance, and Revolution


クリスチャンによる政治的「平和運動」は望ましいことでしょうか。それとも惑わしでしょうか。――真実な平和を求めて

聖書はそれ自身で立ちうる。―フランシス・シェーファー