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オーストラリアで初の女性司教(聖公会) 2008年、パース市、source





アンドレアス・J・コステンバーガー師へのインタビュー記事 (1テモテ2:12に関して)


Interview with Andreas J. Köstenberger on 1 Timothy 2:12



(インタビュー聞き手:アンディー・ナセリ氏、ベツレヘム神学校新約学、2008年7月30日)



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アンドレアス・J・コステンバーガー(Andreas J. Köstenberger)氏は、ノース・カロライナ州ウェイク・フォーレストにある南東バプテスト神学校の新約学教授であり、1996年より教鞭を取っておられます。

氏はトリニティー神学校で、D・A・カーソンの指導の下、新約学博士号を取得し(1993年)、1999年以降、Journal of the Evangelical Theological Society の編集員を務めておられます。

氏のブログは、ココです。

また、(ジェンダー問題を含めた)論文リストは、ココ、そして、説教・講演MP3はココです。



このインタビューはコステンバーガー師の論文“A Complex Sentence: The Syntax of 1 Timothy 2:12,” in Women in the Church: An Analysis and Application of 1 Timothy 2:9-15(『教会の中の女性―1テモテ2:9-15の分析および適用』の中の一章「複雑なセンテンス:1テモテ2:12の構文論」)を基になされています。


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1テモテ2:12a

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。(新改訳)

女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。(口語訳)

婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。(新共同訳)

女が教えることを私は許さないし、また男に指図することも〔許さない〕。(岩波訳)

わたしは女性が教えたり男性を押えたりすることを許しません。(前田訳)

(教会で)婦人が教えたり、男子の上に立ったりすることは許さない。(塚本訳)

われ女の教ふることと男の上に権を執ることとを許さず。(文語訳)

διδάσκειν δὲ γυναικὶ οὐκ ἐπιτρέπω οὐδὲ αὐθεντεῖν ἀνδρός

I do not permit a woman to teach or to exercise authority over a man.(ESV訳)





1.著書『教会における女性』は、ヘンリー・スコット・ボールドウィン氏の研究論文を引き継いだ形で書かれていますね。この本の中で、主に何を取り扱っているのか、教えてください。



特定の聖句に関して、互いに異なる解釈が導き出されてしまう理由は、往々にして、聖書解釈における妥当な原則に私たちが従っていないことに因ると思います。

例えば、「文脈を無視して一聖句を取り出す」、「歴史的・文化的背景を曲解する」、「語彙的・文法的事項にしっかり注意を払っていない」、、などです。


*この問題について私は以前、次のような論文を書きました。

“Gender Passages in the New Testament: Hermeneutical Fallacies Critiqued,” Westminster Theological Journal 56 [1994]: 259-83; reprinted in Studies in John and Gender and available as a PDF




ですから、1テモテ2:9-15のように、重要かつ論争の焦点になっているような箇所を取り扱う際には尚更、私たちは、聖書解釈における正当なステップを自分がはたして全て踏んでいるのか否か、しっかりと確認する必要があると思います。

そこを踏まえた上で、以下のような6つの論述がなされたのです。


.歴史的背景(S. M. Baugh)

.語彙研究("authentein”[権威を持つ・行使する]という語について。H. S. Baldwin)

.文構造(1テモテ2:12において「教える」と「権威を持つ」をつなぐ語 "oude"[ないしは]について。A. J. Köstenberger)

.文脈における釈義(T. R. Schreiner)

.解釈学(R. W. Yarbrough)

.適用(D. K. Patterson)


[*各章の要約を読みたい方は、“The Crux of the Matter: Paul’s Pastoral Pronouncements Regarding Women’s Roles in 1 Timothy 2:9-15,” Faith and Mission 14 (1997): 24-48をお読みください。]





2.この本の主要テーマは一言でいうと何ですか?



そうですね、一言でいえば、ここの聖書箇所を自然に読むなら、パウロは、女性が教会で牧師や長老になることをやはり禁じている、ということです。

――なぜなら、パウロは女性が教えたり男性の上に権力を持つことを許していないからです。

そしてこういった理解こそ、2000年近くに渡り、キリスト教会でなされてきた聖句理解だったのです。

実に、1960年代に現代フェミニズム運動が勃興し、ここの聖句を深刻に疑問視するようになるまでは、教会はずっと上記のような理解をしてきたのです。

しかしながら、福音主義フェミニストの方々は、「正しく解釈するなら、聖書は――個人としての価値、尊厳、そしてキリストにある救い、ということだけでなく――教会的な役割においても完全なジェンダー『平等』を説いている」と主張しておられます。

そうすると、当然のことながら、彼らはここの聖句の自然な読み方を受け入れることができない訳です。

その結果、こういった人々は、さまざまな仕方で、この箇所を再解釈しようと試みています。

そしてそういった再解釈の試みは、上に挙げた6つの側面すべてに及んでいます。


当時のエペソの女性たちに対してだけ?


背景に関していいますと、彼らは、「パウロがテモテへの手紙を書いた当初、問題になっていたのは、特にエペソにいる女性たちのことだったのです。だから、ここでの教えは、今日には適用されないのです。」と主張しています。

(*ただし、この説に関しては、フェミニストの間でも、多種多様な説明がなされており、ばらつきがみられます。)

『教会における女性』の1章で、S・M・Baugh氏(1世紀エペソ碑文の専門家)は、こういったフェミニストたちの主張が無効であることを示し、「1テモテ2:12におけるパウロの教えは、1世紀のエペソだけに限定されたものだった」という彼らの主張に関しては、学術的にも、その他の理由においてもそこに根拠を見い出すことができない、ということを述べておられます。



Authentein(権威を行使する)の動詞に関して



次に、H・S・Balwin氏は、"authentein”(αὐθεντεῖν:権威を行使する、支配する)の意味をめぐっての問題に取り組んでいます。

欽定訳は、この語を「権威を侵害する(“usurp authority”)」と訳しており、最近になって、多くのフェミニスト(例えば、I・H・マーシャル氏など)が、この語は否定的な含みを持つ語だと主張するようになってきています。

「もしそうなら」と彼らは言うのです。

「パウロがここで禁じていたのは、教会の中における女性の『否定的』権威の行使、それから女性の説く誤った教えに限ったことであり、それらの機能における彼女たちの[権力の]行使ではなかったのです」と。

しかしながら、Baldwinの研究が明らかにしているのは、authentein(権威を行使する、支配する)という動詞は、新約期における非常に稀な語だったということです。

(新約の中でこの語が出てくるのは、1テモテ2:12のこの箇所だけで、あとは1テモテ書以前に、一、二回登場するだけのレアーな語です。)

(中略)

もちろん、こういったこと[=牧会職が男性だけに開かれているという聖書の主張]は、対等主義の浸透している現代文化の中にあっては、アナテマでしょう。

多くの人々は、「聖書が、そんなやり方で、女性に対し『差別』をするなんて、とうてい受け入れられない!」と考えています。

このようにして、聖書と、(全ての文化ではないにしても)多くの文化は、互いに衝突し、両者の間に軋轢が生じます。

そして私たちはどちらの道に従うのか決断しなければなりません。

――1)周囲の文化か、それとも、

2)聖書か、

そのどちらかです。

(しかしもちろん、福音主義フェミニストの方々は、この両者の間に『衝突がある』ということを認めたがりません。

彼らによれば、イエスもパウロも、彼らと同じような対等主義的思想を持った人なのです。

――1テモテ2:12に関するパウロの教えがあるにも関わらず。)



5.なぜこのイシューが、今日の教会にとって重要なのでしょうか?



現在、キリスト教会は、周囲の世俗文化からの圧力にさらされています。

こういった文化は、「自分たちが『良し』と認める慣習に自らを順応させよ!」と教会に圧力をかけてくるのです。

その結果、「教会におけるある種の教えや牧会の役割が、男性だけに限られている」という聖書の教えを保持することは、ますます困難になってきているのです。

近年、特に世界のアングリカン・チャーチ(聖公会)において、私たちは重要な変遷を目の当たりにしています。




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聖公会(アングリカン・チャーチ)



また少なくとも、ある事例においては、女性の牧師叙任の擁護やその寛容を含め、「個人の選択」を強調するイデオロギーがそこに露見されます。

さらに――擁護とまではいかなくても――、教会内における同性愛行為についても同様の動きが見られます。

そしてそれは教会員の間だけではなく、指導者層の間でもそうなのです。

こういった事から明らかに言えること――、それは、「教会での女性の役割」というイシューは、孤立した事項ではなく、今後教会が直面し続けていくであろう、互いに関連を持つ一連の大きな問題の一部であるということです

もちろん、これは救いに関する一次的な問題ではありません。

(教会における女性の役割に関する見解をベースに人は救われるわけではありませんから。)

にもかかわらず、これは、実際的にも、また教義の面でも、教会の今後に少なからぬ影響をもたらす、重要な問題であるといえるでしょう。



―インタビュー記事抄訳おわり―


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