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私は前回の記事で、アンドレアス・J・コステンバーガー師へのインタビュー記事を取り上げました。

五つの質問の内、三つを翻訳した後、「うーん、後の二つはちょっと細かい説明だから、、、」と思い、翻訳はやめにしました。

でも、今日、やっぱり残りの二つの説明のことが頭から離れず、結局、ぜんぶ訳することにしました。

どなたかのお役に立てれば幸いです。

☆☆

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3.それでは、1テモテ2:12の検証においては、語彙研究のメソッドそれ自体だけでは、決定的な結論が出ないということでしょうか。


ええ、そう思います。

この場合における語彙研究では、限られたデータに負っていることもあり、どうしても決定的な結論が出しにくいという面があります。

そのため、次の章で、私が、1テモテ2:12の文構造を取り扱う運びとなったのです。

まず私は分かりやすい単語の検証から始めました。

ギリシア語の等位接続詞oude("or")とつながっている動詞didaskei(教える)は、牧会書簡の中で頻繁に登場する語です。

またこの語はほぼ常に、肯定的な含みを持つ語であり、教会の牧師や長老から会衆への指導のことを指しています。(例:Ⅰテモテ4:11、6:2、Ⅱテモテ2:2)。


統語パターンで言いますと、私は新約聖書および聖書外のギリシア文学の中におけるoudeの用法について詳細な検証をしました。

そして100以上の並列的統語構造を見つけました。

そして各事例において、oudeは、等位接続詞として、類似の含みを持つ動詞をつなぐ働きをしていました。

――そのどちらも肯定的である場合もあれば、両者とも否定的である場合もありました。

例えば、マタイ6:20で、イエスはこう言われました。

自分の宝は、天にたくわえなさい、、、、盗人が穴をあけて盗むことも(oude)ありません。



ここで注意していただきたいのは、「穴をあけること」も「盗むこと」も共に、否定的意味合いを持っているということです。

そして連続的パターン(まず盗人が穴を開けて侵入する→そして次に盗む)に従っています。

そこから次のような結論が導き出されます。

もしも、didaskein(教える)が、

1)肯定的含み(positive connotation)を持っており、
2)oude(“or”)が常に、類似の意味合いの動詞をつなぐものだとしたら、

それならば、必然的に(そして統語法的に)、authentein(権威を行使する)も肯定的含みを持つと言わねばならないわけです

よって、大半の福音主義フェミニストの方々の主張は無効にされます。

☆☆

パウロは、教会内において、男性に対する女性の「否定的な意味での権威の行使」を禁じているだけでなく、「正統的な権威の行使」でさえも禁じています。

簡潔に言うなら、パウロは、女性ではなく、男性が長老として仕えることを求めているのです。

(これは、監督の資格に言及した箇所で、パウロが、1テモテ3:2「ひとりの妻の夫、faithful husbands」と述べている直接的文脈の中でも[その正当性を]裏付けることができます。)



4.残りの章ではどのようなことが取り扱われているのでしょうか。


第4章では、T・R・シュレイナーが、1テモテ2:9-15の解釈に関する多くの釈義上の問題に取り組んでいます。


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Thomas R. Schreiner


特に、彼は1テモテ2:12に続く聖句に注目しています。

後に続く聖句において、パウロは、なぜ教会で、女性が男性を教えたり支配したりしたりしてはならないのかについての根拠を明確に述べています。

――それは

1)初めに男が造られ、その次に女が造られたという秩序(13節)、そして

2)罪による堕落の際に起こり、悲惨な結果をもたらした権威の逆転ゆえ(14節)

だと言っています。

シュレイナーが指摘しているように、大半の福音主義フェミニストの方々は、「こういった聖句が12節でのパウロの禁止[の理由]を明確化している」という事に対し、適切な釈明をしていません。

また彼らは、「1テモテ2:12というのは、孤立した、難しい聖句であるから、パウロの明確な対等主義的教え(と彼らはガラテヤ3:28を引用しつつ)の光の下で、12節のこの聖句は解釈されなければならない」と言っています。

しかしながら、彼らが見誤っているのは次の点です。

つまり、1テモテ2:13-14において証言されているように、パウロ自身、教会における男女の役割の区別を、――創世記2章と3章という――創造のはじめにまでルーツを溯り、見い出しているということです。

☆☆

第5章では、文化研究の専門家であるR・W・ヤーブロー(Yarbrough)が、歴史的・解釈学的コンテクストの中で考察を進めています。

その中で彼は、多くの福音主義フェミニストの方々の議論は、「文脈批判」の中にそのルーツを見い出すことができるということを示しています。

ここでいう「文脈批判」というのは、つまり、正当性に問題あるなにがしかの基準をもとに、聖書の諸聖句の間に、恣意的な区別を設けようとする試みのことを言います。

こういった解釈をする人々は、現代のモーレス(道徳規範)にとって納得できる聖句を好む一方、自分たちに受け入れがたく思われるような聖句は脇にうちやります。

そうです、これこそまさに、ガラテヤ3:28(「男も女もない」)をパラダイム聖句と主張しつつ、1テモテ2:12は「一次的で制限された妥当性しかない」と脇にうちやっている人々の現実なのです。

(この問題について私は、この論文を書きました。)

☆☆

最後に、D・K・パッターソン女史が、ご自身の証しを述べた後、今日の女性が自分たちの生の中で、1テモテ2:12の教えをどのように適用させていくことができるのかについての実際的な方法について書いておられます。

以上のことから総括して言えるのは、歴史的文脈、語彙的・統語的考慮、釈義的・解釈学的ファクター、適用の問題――、

こういった全ての要素が、〈非〉フェミニスト的な1テモテ2:12の読み方の妥当性を示唆している、ということではないかと思います。


ーおわりー




子供を産むことができない、結婚することができない女性たちに注がれる主の憐れみと慈しみ

祈りのベールの証し―(ヴィアン姉妹、ノルウェー)それから、、ちょっと息抜き。