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朝露(あさつゆ)


周りの人々から、「まだお腹に赤ちゃんはいないの?」と訊かれることがあります。

「いないです」と答えると、「病院に検査に行ったらどう?」と心からの善意をもって、提案してくださる方もいます。

また、先日、東京にいる姉妹からメールがきて、「○○姉妹も、△△姉妹も皆、結婚したいのに相手が与えられず、かわいそうに、今もまだずっと一人でいる。祈ってほしい。」と彼女たちの苦境を訴えてこられました。

☆☆

1テモテ2:15

しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。



「子を産むことによって救われるであろう」の解釈



上の記事をお読みになってくださればはっきりすると思いますが、ここでパウロのいう「子を産むことによって救われます」を、救いの功績や手段として解釈するのは、福音が啓示する「信仰のみのよる義認」の真理から外れるので、それは違います。

この箇所には複数の解釈が存在しますが、チャールズ・パウエル師は、


⑥女性は母親の役割に忠実であることにより、その報いを天に帰ったときに受ける

⑦女性は母親の役割に忠実であることにより、男女の役割を逆転させる惑わしから解放される

(これは⑤と似ているが、教会という領域を超えて述べられている)



という意味ではないかと捉えており、

子供を産み、子育てを忠実にすることによって、女性は女性ならではの役割を果たすことになり、教会の中でリーダーシップを取らなくても自らの存在価値を十分に高めることになり、役割逆転の惑わしから守られるという意味で、「救われる」と言っているのです。



と解釈しておられます。

(以上「ダビデの日記」「子を産むことによって救われる」とは?1テモテ2:11~15より引用させていただきました。)


私は個人的に、パウエル氏の解釈は正しいのではないかと考えています。

また、たとい氏の説明が「的外れ」だったとしても、1テモテ2章の文脈全体を考えた時、女性が「子どもを産むこと」には、やはり、神様のすばらしい奥義があり、その意味で、ここで使われている「救われる」という動詞には重みと深さがあると思います。

ですから、子どもをお産みになった姉妹のみなさん、よかったですね!そして、これから出産しようとしておられるみなさん、どうぞこのすばらしい務めを喜んでください。応援しています。

☆☆

しかしながら、その一方、さまざまな事情から結婚に導かれていない方や、私のように子どものいない女性たちは、どうすればいいのでしょう。

結婚も、出産も、究極的には主の御手の内にあり、そこには往々にして、私たちにはどうすることもできない状況があります。

このエッセーの中で、私は自分自身の辿ってきた信仰の歩みから、そういった状況の下で悲しみ、うちひしがれている女性のみなさんに一つのsecret(秘伝!)をお伝えしようと思います。


それは、今日みなさんがその状況下にあることは、神のご主権(Sovereignty)から決して外れていないということなんです。


また、もう一つ私が学んだこと――それは、「欠け」はむしろ恵みであり、天への門だということです。

人生になんらかの欠けがある時、それは私たちの心に悲しみをもたらします。

そして、その悲しみは、私たちをしてイエス様の懐へと向かわしめます。なぜなら、そこにおいて、その人は真に慰められるからです。


悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。マタイ5:4




またそういった「欠け」は、私たちに地上の生の不完全さを否が応でも自覚させます。

そして、その自覚は、嘆きという翼を帯びつつ、もはや欠けのない全き世界――上にあるもの、天にあるもの(コロ3:1、2)――へと私たちの思いを引き上げてくれます。

☆☆

ですから、私は喜んで、御言葉に「裁かれ、打ち砕かれ」、御言葉の前に「敗北」しようと思います。

なぜ私はこのようなことを言うのでしょうか?

それは、ここにこそ、「フェミニズムの道」と「聖書的女性の道」を分かつ分岐点があるからです。

「フェミニズムの道」も、傷ついた女性たちの道であることには変わりがありません。

しかしフェミニズムは、私たちを悲しみの人イエスへと導く、こういった命のみことばの前にへりくだることをせず、その反対に、神の言葉に対し――ひそやかな、あるいは大胆な――反旗を翻します。

それは神様の采配に対する、漠然とした「心の苦々しさ」「鬱積(うっせき)感」「ゆううつ」という形を取る場合もあれば、こぶしを突き上げ神に絶叫するような「憤怒」という形を取って現われる場合もあります。

「『女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます』ですって?これこそ家父長的な愚の骨頂さじゃない!いいかげんにしてよ!」と。

私自身、もしもこういう受け取り方をしていたら、今頃は、対岸の岸で反旗の論陣を張り、「情報処理能力」をフルに生かしつつ、保守男性陣のダビデさんたちなんかを「やっつけるような」反論記事を書いたりしていたかもしれません(笑)。


ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。

1コリント15:10a




☆☆


子どもを産むことができないのは悲しみです。

そして、結婚したくてもできない状況――これもまた悲しみです。

私たちはハンナのように主の前に、心を注ぎ出したいと思います(1サム1:15)。

繁栄の神学は、私たちに現世的な報いと満たしを約束します。

しかし、イエスさまの福音は、悲しむ者に、天の希望となぐさめを与えます。

主よ、私たちの人生の「欠け」が、御手の中で、あなたの聖さと美しさを映し出し、やがて他の魂をもなぐさめ富ます、祝福の泉とされていきますように。

アーメン。



天への憧れ―イサク・ワッツの信仰詩

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