Indianchildren.png
インドの村のこどもたち



昨日の記事のコメント欄で、愛する兄弟姉妹ととても有益な分かち合いをすることができました。


ひと昔前までは、新約聖書のコイネー・ギリシャ語というのは「高尚で、普通の言葉とは格の違う神聖な言語」という主張がなされていました。


しかしエジプトなどで大量に発見されたヘレニズム期のパピルス文書(その多くは一般民衆のメモ書きなど)の研究が近年進み、そこから明らかになっていったのは、新約聖書のコイネー・ギリシャ語は、一般の人々が日常話しているような素朴な民衆語であったということでした。




greek_leviticus20160809.jpg
エジプトで見つかったコイネー・ギリシャ語のパピルス文書、
Oxyrhynchus, Egypt, ca. 200
, source



☆☆


言語エリート主義というのは、いつの時代にも、どの国にも、どの文化・宗教圏にも存在する悲しむべき現象だと思います。

原典聖書に通じていたパリサイ人がそうでしたし、民衆が直接聖書を読むことを禁じ、ラテン語だけでミサを執り行っていた中世カトリック教会の聖職者などがその典型だと思います。




spring_branch_1920x1200-hd-wallpaper.jpg




私がこの「言語エリート主義」に初めて遭遇したのは、中学1年生の春でした。

地元の公立小学校を卒業し、中央にある中高一貫の私立校に入学した私は、そこで今まで出会ったことのない種類の人々と机を並べることになったのです。


それまでの人生で私はローカル弁以外、話したことがありませんでした。

もちろんテレビのニュース番組などを通し、標準語のリスニングはちゃんと出来ていましたが、それを日常生活の中で使ったことは皆無でした。


しかしその私立校には、私と同じく超地元人でありながら、なぜかローカル弁を話すことを硬くなに拒み、標準語でしか私に返答してくれない人々がいたのです。


最初は訳が分からなかったのですが、後になって分かってきたのは、日本語にはどうやらヒエラルキーというのがあって、一番上には、関東で話される標準語があるらしいのです。


そしてその高級な標準語に比べると、九州の片隅なんかで話されているローカル弁などは「はしたなく」「無教養で品に欠け」「田舎じみている」劣った日本語だということらしいのです。


口にこそ出していませんでしたが、事実、標準語だけを話す彼女たちの言動そのものが、「ローカル弁は恥ずべきものです」というメッセージを私たちに発していました。


(*余談ですが、そのようにしてローカル弁を避けつつ、あえて標準語を話そうとする地元民の(地元アクセントの抜けきらない)東京語のことを、ローカル人たちは「唐芋(カライモ)標準語」と呼んでいます。

ですから私もみなさんとどこかでお会いした時には、このカライモ語で話しますので、よろしくお願いいたします(笑))


☆☆


話を戻します。

その後も、各地で私は、同じような現象を目撃することになりました。

例えば、韓国では、全羅道(チョンラド)地方の人々の方言は、他のどの州の方言よりも軽んじられているように私には思えました。

また、ドイツ語圏でも、High Germanという標準ドイツ語がある一方、スイス・ドイツ語などは「ダサい」と疎んじられる傾向があることも知りました。


しかしそれがさらに政治的意味合いも帯び、深刻な社会問題になっているのが、ペルシャ語の一方言と位置付けられている「ダリー語」です。

ダリー語というのは、アフガニスタンやパキスタンなどで話されている言語ですが、スイス・ドイツ語と同じように、テヘラン標準語を話す人々の多くから、「劣等で非文化的な言葉」として侮蔑の対象になっています。

そしてこれはイラン国内にいる何百万というアフガン難民に対する人種差別問題とも直結しているため、本当に冗談では済まされない問題なのです。

そして残念ながら、この問題は、現在、キリスト教会内にも持ち込まれています。


☆☆


ですから肩身の狭い思いをしているダリー語話者の求道者の方々には、私たちは格別の配慮をもって、次のように励ましています。


「ある宗教の人々は、アラビア語だけが天からの聖なる言語だと言っています。

またある人々は、テヘラン語だけが高級な標準語だと言っています。

しかし、○○さん、聖書の神様は、すべての言語、すべての方言を等しくお造りになり、それらを愛おしんでおられます。

つまり、イエス様はあなたがダリ―語で自分の思いをそのまま祈りにし注ぎ出すことを喜んでくださるお方なのです。

ですから、あなたが神様に造られた尊い存在であるように、あなたが話すその言葉も主の目に尊いんです。

ですから、それを恥じる必要はないんですよ。安心してくださいね。」


☆☆


おわりに


イエスさまや使徒たちが生きていた1-2世紀、地中海世界のギリシャ語文化知識人の間で、こういった「みっともない」民衆語コイネーに対する、反動保守化運動が起こりました。


「プラトンの古典作品に見られるようなあの高級な古典期のギリシャ語をあくまで保持しようではないか?」という動きです。


こういった一連の潮流のことをギリシャ語ではΑττικισμός(アティキズモス:アッティカ主義)といいます。


実際、PhrynichosとかMoirisとかいった当時の文法学者たちなどは、「コイネー・ギリシャ語など、実にけしからん」と言って、激しく批判しています。註1


1コリント1:22-24


ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追及します

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

しかしユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです




現在でも、

「聖書の原典が読めないと、神のことばの本当の意味が分からないのです」とか、

「主なる神や御子の名をヘブライ語オリジナルの音声で正しく読み上げない限り、それはクリスチャンとして望ましいあり方とは言えない」

とかいった主張と共に――そしてそれらがたとい「聖書をもっと知りたい」という真摯な思いからスタートしたものであったとしても――現代版「アッティカ主義」、そして言語エリート主義が、私たちの内に、そして私たちの教会に忍び込んでくるのではないかと危惧しています。(参照


私は、民衆語コイネーで神のことばを訳することを良しとされた聖書の神様のご意思に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)という、受肉された御子イエスの、罪びとに対する限りない愛をみる思いがしています。


そしてこの愛で満たされる時、私たちもまた、どこであっても遣わされるところに行き、そこに生きる人間、そして彼らの話す生きた言葉を愛し、そして、彼らの間で生けるキリストの香りを放っていく存在にされていくのだと思います。


読んでくださってありがとうございました。




―――――

註1)

-Γεωργίου Μπαμπινιώτη, Συνοπτική Ιστορία της Ελληνικής Γλώσσας, Αθήνα, 2002, p.119

-Ανδριώτης, Ν, "Η ελληνική γλώσσα στους μετακλασσικούς χρόνους", Ιστορία του Ελληνικού Έθνους, 5ος τόμ,Αθήνα: Εκδοτική Αθηνών, p.264




ねずみのピエールをたすけた女の子―こどものおはなし(フランス)

夜明け時の静寂と祈りのひととき(early will I seek thee)