IMG_0075.jpg

数あるウォッチマン・ニーの著作の中でももっとも有名なものは、『キリスト者の標準(The Normal Christian Life)』だと思います。日本でもいのちのことば社から1960年に初版発行されて以来、今日にいたるまで版を重ねています。

さて、この本の中で、ニーは何度となく「真に主を知っている聖徒」である老婦人について触れています。この人は「私の人生の途上において、非常に大きな影響をもたらした愛する聖徒」であったと。

ニーにこれほどの影響を与えた老婦人とはいったい誰だったのか、私はずっと気になっていたのですが、数年前、それがイギリス出身の宣教師マーガレット・E・バーバル(Margaret Barber)という方であることを知りました。

本ページでこれからご一緒にマーガレット宣教師の生涯をみていこうと思うのですが、その前に、ウォッチマン・ニーに彼女の人となりについて少し語ってもらいましょう。

「私たちのうちのある者は、真に主を知っている聖徒を知っています。そして、その人と共に祈り、または共に語ることにより、その人から輝き出る神の光のうちに、以前に見たことのなかった何ものかを見るのです。

私はそのような人に会ったことがあります。この人は、今は主と共にあるのですが、私はこの婦人のことを、いつも「光をともされた」キリスト者として思い出します。ただその婦人のへやに入りさえすれば、すぐに私は神の臨在を意識することができました。

そのころ私は非常に若く、回心後2年ほどたったころで、主の認可を待つ盛りだくさんの計画、多くの美しい考え、もし実を結べばすばらしいと思われる実に多くの事がらを持っていました。

私はこういう一切のものをたずさえて彼女のもとへ行き、彼女を説きふせ、これこれしかじかのことをなすべきであると語ろうとしました。

ところが私が口を開く前に、彼女はふだんの調子でわずかな言葉を語ったのです。すると光が見えはじめたのです!

そのため私は、全く恥じ入りました。私の「行ない」はすべて余りにも生来のものであり、余りにも人間臭かったのです。何ごとかが起こりました。そして私は、こう言い得るところまで導かれたのです。

「主よ、私の心はさまざまの人間的な活動にのみ奪われています。けれどもここに、それらの事がらに少しも触れられていない聖徒がいます。」

彼女はただ一つの動機、一つの願望のみをいだいていました。そしてそれは神のためのものであったのです。

彼女の聖書の見返しには、次のような言葉が記されていました。「主よ、私は自分のためには何も求めません。」――そうなのです、彼女は神のためにのみ生きたのです。

そして、たとえどこにそのような人がいようが、あなたはそのような人は光に浴している人であり、その光は他の人も照らすことを知るのです。これこそ真のあかしです。」
 (『キリスト者の標準』p270-271)

☆☆
生い立ち

margaret e barber

マーガレット・E・バーバル(1866-1929年)はイギリスのサフォークで生まれ、1899年、英国国教会の宣教師として中国福建省の福州に渡りました。

そしてそこの女子高校(英国国教会の管轄)で7年間、教鞭をとります。しかし、マーガレットの敬虔な生き方は同校の校長のねたみを買い、彼女は根拠のない「校則違反」で訴えられてしまいます。

この件に関し、彼女は「もし親指が小指といさかいを起こせば、頭を傷つけるだけ。私にできることは文句を言わず、この学校を去ることだ」と判断しました。にもかかわらず、中傷内容は、英国ミッションの中央委員会まで送られました。

マーガレットはこの期間を通し、十字架の御陰にじっと沈黙を保つことを学びました。自己弁護にやっきになるよりむしろ、誤解・中傷に甘んじることを選びとったのです。

イギリスに帰国後、彼女は、キリスト教雑誌「夜明け(The Dawn)」の編集者であったD.M.パントンに出会い、この兄弟から霊的な助けを得ます。そして2年後の1909年、再び中国に戻りました。

同行した姪のバロードには少しお金の蓄えがあったのですが、マーガレットは信仰だけを唯一の頼りに出発しました。アブラハムのように、主が自分の必要を満たし、行き先を示してくださると彼女は信じていたのです。

船が福州のパゴダ停泊地に近づき、美しい山村の光景が目に入ってきた時、マーガレットは「神がご用意してくださったのはこの地だ」と感じます。そしてその導きにしたがい、パゴダに家を借り、召されるまでの30数年余りをその片田舎で過ごしました。

China country 3

その2

「人に知られず」(Ⅱコリント6:9)

マーガレットは宣教師として中国に滞在中、ほとんど旅行することなく、人前に出ることもほとんどしませんでした。彼女はただ主の動きに心の目を向け、主を求め相談にやって来る少数の人々を助けました。

ある時、若いウォッチマン・ニーが、ある雄弁で明晰な説教者のことを称賛したところ、マーガレット宣教師は、ただ一言「そういったもの(生来の能力)は、いのちから出たものでもなく、御霊から出たものでもない」と言いました。

生来の能力を行使し、人々の気分を高揚させることはできるかもしれない。でもそういったものでは人々にいのちを与えることはけっしてできない、と。彼女は「働き」よりも、「いのち」により多くの関心を払っていたのです。

彼女はまた、若いクリスチャンの奉仕者たちがやたらに人前に出るような働きに携わることの危険性を指摘していました。そういった働きは、彼らの信仰を破滅させかねないと。

しかし、こういった彼女の深い霊性を理解できる人は当時、周りにほとんどいませんでした。ウォッチマン・ニー自身も当初、「彼女はこんな片田舎で何もせず、人生をむだにしている」という思いを抱いていたことを次のように告白しています。

China country 2

「私の心の中には、『この人は用いられていない』という思いがあったのです。そのため私は、いつでも自分自身にたずねていました。

『どうしてこの人は、出かけて行って集会を開かないのか。どうしてどこかに出て行って、何かしないのか。あの人が、何ごとも起こりそうもない小さな村に住んでいるということは、あの人にとって生涯の浪費だ。』

時には彼女を訪ねて、まるで叫ぶようにして言ったものです。『あなたほど、主をよく知っているかたはありません。あなたは、もっとも生きた方法で聖書を知っておられるではありませんか。あなたは周囲の必要がわからないのですか。

どうして何かなさらないのですか。ただ何もしないで、ここでじっとしているなんて、時間の浪費、力の浪費、金銭の浪費、あらゆるものの浪費ですよ。』」(p310)

浪費?

watchman nee


しかしその後の霊的歩みの中で、ニーは次のようなことを理解します。

「しかし、主から見れば、用いられるということが第一のことではないのです、、今日かえりみると、主は事実上、いかにその婦人を用いて私たち少数の青年に語りかけておられたかがわかります、、、私はこの婦人のことを、どれほど神に感謝しても足りません。」(p311)

そして彼女の人生を通し、ニーはある深い霊的真理を悟るようになります。

「しかし主は、私たちが主のための働きに絶えず携わっていることについては、それほど関心をもたれないのです。そのようなことが、主の第一の目的ではありません。主への奉仕は、目に見える結果によってはかることはできません。

私の友よ、主が第一に関心を寄せておられることは、主の足下における私たちの立場であり、また私たちが主の頭に油を注ぐということです、、、私たちは(その)すべてを主にささげつくすのです。そのことは、よく理解しているはずの人々にとっても、浪費と思われるでしょう。しかし、このことこそ、すべてにまさって主の求めておられることなのです。」(p312)

マーガレットの作った《Buried?(埋められる)》という詩を読むと、こういった彼女の信仰の息吹を感じることができます。

埋められる?――しかり。
でも、その種によって
大地は他を養うことができる。

何百万という人が後に
その種が地に埋められたことを
祝福する日がくるかもしれない。

埋められる!
隠される!
人目につかないところに置かれる!

漆黒の夜のなかに宿り、
芝土の下に
すべてを失いつつある――神以外のすべてを。

埋められ、もはや覚えられず、失われた。
人はそう考える。

でもそれらすべての犠牲を
神はおぼえていらして、

いつか喜びの日に
満ち満ちたいのちをみせてくださる

あなたは埋められているか?
神のきよい種よ。

あなたの心は
沈黙のうちに血を流しているか?

ため息を歌に変えなさい。

このようにしてのみ、
収穫はくるのだから。


(私訳)
その3

STREAM in the desert

ケリテ川のほとりで

奥まったパゴダにいるマーガレットには、経済的サポートをしてくれる大きな教会もありませんでした。彼女はただひたすら全ての必要が満たされるよう主に寄り頼んでいたのです。

こんなエピソードもあります。ある時、福州地域にいる宣教師たちの間でうわさが広がりました。それによれば、パゴダの片田舎に住むバーバル婦人はかなり生活に困窮していて、衣食にさえ事欠いているということでした。

そこで一人の宣教師が様子をみに、パゴダを訪れることにしました。彼女がパゴダに着くと、マーガレットはちょうど子犬にパンとミルクをやっているところでした。この宣教師は驚嘆して言いました。「じゃあ、うわさは根も葉もないものだったんですね!神さまがあなたに驚くべき恵みを与えていらっしゃるのを今この目で見ました。」

また彼女の妥協のない姿勢は次のようなエピソードからもうかがい知ることができます。

ある時期、請求書の支払いが迫っていたにもかかわらず、彼女の財布の中は空っぽでした。ちょうどその時、ある人がやって来て、彼女に経済的援助を申し出ました。しかし同時に、その人はこう言ったのです。「神について〈迷信的〉になるのはおよしなさい。もっと現実的になりなさい」と。それを聞いた彼女は、差し迫った必要があったにもかかわらず、きっぱりと援助を断りました。

そして主が彼女の必要を満たしてくださるとあくまで信じ続けたのです。実際、その翌日、イギリスのパントン兄弟から思いがけずかなりの額の小切手が届きます。どうしてこの時期に小切手を送ってくださったのですかという彼女の質問に対し、パントン氏は、「祈りの中で(彼女にお金を送るよう)主に示された」と答えたそうです。

「ケリテ川」というマーガレットの詩があります。ケリテ川のほとりで烏によってパンと肉と運んでもらいつつ、ひたすら神に寄り頼みつづけていたエリヤの信仰(Ⅰ列王記17:3)をうたったものです。

愛する者よ、小川がひからびたのなら、
そして目に見える備えが尽きたのなら、

そのとき
あなたのためになされる
神の奇蹟を待ち望みなさい。

あなたが欠乏することは ありえない
なぜなら
神はご自身の子をパンで養ってくださると
言われたから。

この言葉は真実。
創造的み力は、時々刻々と
あなたのために働かれる

そしてあなたは、あらんかぎりの信仰をもって
力ある主の御手
愛にあふれし主の御心
を証ししていくだろう


IMG_0078.jpg

その4

聖さ

日々、長い時間を祈りと黙想のうちに過ごし、ひたすら主の臨在のうちに生きようとしたマーガレットをみて、人はその中に主ご自身の聖さを感じ取りました。

ニーはこのように証ししています。

「多くの兄弟姉妹が〈聖化〉について語っているのをききました。

それで私は聖化に関する教理を研究しはじめました。その過程で、私は聖化にかんする200余りの聖書箇所を見つけ、それらを暗記し、系統立てていきました。

しかしそもそも聖化とは何であるか、それは私にとってまだ不明瞭でした。そして内側に空虚なものを感じていました。

そんなある日、私はこの年老いた姉妹に出会ったのです。――そう、この姉妹は文字通り、聖かったのです。

その日、私の目は開かれました。聖められるということがどういうことであるか、私はこの目で見たのです。私の出会った人、この人は聖かった。それは私に強烈な印象を残しました。その光によって私は前に押し出されたような感じでした。もう逃げ場はなく、私はついに聖化をみたのです。」

これを読んだ時、私は思わず「ああ、すばらしい!これこそ真のクリスチャンだ」と感嘆の声をあげてしまいました。

誰かが私たちをみて、「私はキリストの義とは何であるかよく分かりませんでしたが、あなたをみて、それが何であるか分かりました。」「あなたをみて、キリストの愛が何であるかが分かりました。」「あなたをみて、聖霊の宮が何か分かりました。」と言ってくださるとしたら、クリスチャンとしてこれほどの喜びはあるでしょうか。

キリストのご性質を映し出す宮として、私たちが言葉にも行ないにも聖められていくとき、人々はやがて私たちのうちになにかを見始めるのです。

引き裂かれしパンとなって

マーガレットはその鍵を、十字架のうちに、そして私たちの肉が徹底的に引き裂かれることのうちにみいだしていました。

主に仕えようと意気込んだニーが、マーガレット宣教師のもとを訪れたことがありました。そんなニーに彼女は尋ねます。「主はあなたに何を望んでおられるのですか。」

ニーは答えました。「主に仕えること――これを主は望んでおられます。」

再び彼女は尋ねました。「もし主がそれを望んでおられないとしたら、どうしますか。」

彼は答えました。「私が奉仕のために何かをすること、それを主は間違いなく望んでおられると思います。」

するとマーガレットはマタイの福音書15章(イエスさまがパンを裂く場面)を開き、こう尋ねました。「ここの箇所についてどう考えていますか。」

ニーは答えました。「まず主はパンと魚を手に取られました。それから主の祝福により、それらは増え、四千人を養うことができたのです。」

それを聞いたマーガレットは真剣な口調でこう言いました。

「主の御手に置かれたひとかたまりのパンは、裂かれ、主によって分配されるのです。裂かれていないパンは変えられず、他の人を養うことができないのです。

兄弟、どうか覚えていてください。過去何度となく、私はこのひとかたまりのパンのようでした。そしてこう言っていたのです。『主よ!あなたに自身を捧げます』と。

でも、私は『主よ、たとえあなたに自分自身をお捧げするとしても、私を裂くことはしないでください』とでも言っているかのように内心抗っていました。

私たちはパンのかたまりのままで自身を差し出したい、でも、引き裂かれるのは御免だと思っているのです。でも、主の御手に置かれたパンがそのまま裂かれずにおかれるということはありえないのです。」


その5(最終回)

「はい、お父様」(マタイ11:26)

マーガレットは従順の人でした。ある時、ウォッチマン・ニーが彼女に、神の意志に従い、みこころを行なうことについて尋ねました。それに対し、彼女はこう答えました。

「主がみこころを私になかなか語られない時はきまって、自分の側に不従順な心やふさわしくない動機があることに気付きました。」

またニーもこう回想しています。

その人(マーガレット宣教師)は、私に何度も『あなたは神のみこころが好きですか』とたずねました。これは恐ろしい質問です。

彼女は、『あなたは神のみこころを行なっていますか』とはたずねず、常に『神のみこころが好きですか』とたずねたのです。

この質問は、他の何ものよりも深く切りつけます。

私は彼女が一度、ある事がらで主と争っていたことを覚えています。彼女は、主が何を望まれているのか知っていました。そして彼女もまた、心の中ではそれを望んでいたのです。しかしそれは困難なことでした。

私は彼女がこのように祈ったのを聞きました。『主よ、私はそれが好きではないことを告白します。けれどもどうか、私の願いに譲歩しないでください。主よ、少し待ってください。そうすれば、あなたのみこころに必ず譲歩いたしますから。』

この聖徒は、主が彼女の前に譲歩して、彼女への要求を弱められることを欲しなかったのです。ただ主をお喜ばせするということが、彼女にとって唯一の願いであったのです。
」(p288)

マーガレットは言いました。

「神のみこころを理解する秘訣は何かといいますと、――そのうちの95%は実に神のみこころに従うか否かという問題にかかっており、(そのみこころを)理解するか否かという問題は5%に過ぎないのです。」

目に見える状況は厳しく、もはや神さまのなさっていることが理解できない時でも、「はい、お父さま」と言って、私たちの意志を主に委ね従っていくときに、そして他の何にもまして主のみこころを愛していくときに、私たちは、マーガレットのように主の聖さを映し出す器へと変えられていくのだと思います。

マーガレットが残していったもの

IMG_0057.jpg


1929年、マーガレットはパゴダの家で静かにこの世を去っていきました。人目につかない所で黙々と主の畑を耕し、孤独に耐え、主の臨在のうちに生きた63年間でした。

召される直前、「いのち!いのち!」と叫んだと言われています。召天時、彼女の持っていたお金は数百ドルでした。そしてお葬式を済ませた後、残ったお金はわずか12ドルでした。彼女は文字通り、天に宝を積んでいたのです。

『キリスト者の標準』の最終章は「(キリストの)香り」というタイトルで始まっていますが、この箇所はマーガレットという聖徒に対する追憶の意味も込められた感動的な章です。

最後にこの箇所を引用して、終わりにさせていただきたいと思います。

「すると、香油のかおりが家にいっぱいになった」(ヨハネ12:3)。

つぼを砕き、香油を主に注いだ時、なんとも言えない良いかおりが家にみちあふれました。すべての人がそのかおりをかぐことができ、それに気づかない人は、一人としてありませんでした。これは何を意味するでしょうか。

あなたが真に苦しみを味わった人――主と共にあって自らの限界に行きづまる経験を、主と共に通り、神に「用いられる」ために、自由の身になろうとする代わりに、喜んで主の「囚人」となり、ただ主にのみ満足を発見することを学んだ人――に出会う時にはいつも、すぐさまあなたは何ものかに気づきます。その時、直ちにあなたの霊的感覚は、キリストの芳香を感じます。

、、おそらくあなたは、主御自身の印象を他の人に与えるために、自分を用いてくださるようにと求めてきたかもしれません。このような祈りは、説教したり教えたりするための祈りではありません。

むしろ、他の人との接触において神を知らせ、神の臨在、神の意識を与えることができるようにとの祈りです。

しかし愛する友よ、主イエスの足下においてあらゆるものを――しかり最も貴重なものでさえも砕いてしまわなければ――あなたは神についてのこのような印象をほかの人々に与えることはできないのです。

しかし、いったんこのような点に到達したならば、あなたは外面的にみて大いに用いられていてもいなくても、ほかの人々の中に渇きを起こさせるために、神によって用いられ始めるのです。人々はあなたの中に、キリストを感知するでしょう。

、、、それらの人は、ここに主と共に歩いた人、苦しみを受けてきた人、自分勝手な行動を取らなかった人、しかも主のためにすべてを明け渡すとはどのようなことかを知った人がいる、と感じとるでしょう。

そのような生涯が、人々に感化を与えるのです。そしてその感化は、人々の心の中に渇きを生じさせ、その渇きは神の啓示によって、キリストにある満ちあふれたいのちに入る所まで追求していこうとの意欲を、人々に起こさせるのです。

、、すでにお話した婦人宣教師(=マーガレット)が、ある時非常に困難な事態に立ち至ったことがあります。それは彼女にとって、すべてを費やさせるほどのものでした。

その時私は、彼女と一緒にいたので、共にひざまずいて涙の中に祈りました。「主よ、あなたのみこころをお喜ばせすることができるために、私は喜んで自分の心をも砕きます。」

、、、ああ、自らがむだになることの祝福よ!主のためにむだになることは、祝福されたことです。

、、主が私たちに、いかにして主をお喜ばせするかを学ぶための恵みを与えてくださいますように。パウロのように、私たちがこのことを最高の目標とした時(Ⅱコリント5:9参照)に、福音はその目的を達成したことになるのです。
(p320~325)

(終わり)

【参考文献】
ウォッチマン・ニー『キリスト者の標準』いのちのことば社
www.mebarber.ccws.org/

内的葛藤に打ち勝ってーメンノ・シモンズの生涯と信仰 

ビルマの白百合――アン・ジャドソン宣教師の生涯と信仰