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J.G.Machen (1881-1937)



J. Gresham Machen,
New Testament Greek For Beginners
より一部翻訳しました。

また、読者のみなさんの便宜を考え、小見出しをつけてみました。




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神は愛なり




新約聖書ギリシャ語について






三つの代表的な方言




古典期といわれる時期、ギリシャ語はいくつもの方言に分かれていました。そしてその中でも次の三つが代表的でした。


1)ドリス方言、

2)アイオリス方言、

3)イオニア方言




キリスト生誕より溯ること500年前、アッティカと呼ばれるイオニア方言の一派が――特に散文学の言語として――覇権を握るようになりました。

このアッティカ方言は、アテーナイ黄金期の言語でした。そうです、これはトゥキディデス、プラトン、デモステネス、その他、偉大なるギリシャ散文作家たちの言語だったのです。



アッティカ方言の影響



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プラトンとアリストテレス



ギリシャ語世界において、どのようにしてアッティカ方言が優位を占めるようになっていったかについては、さまざまな要因が挙げられます。

まず第一に、アテーナイ作家たちの天才ぶりが挙げられるでしょう。

しかし、アテーナイの政治的・商業的重要性もまた、功を奏していました。

政府、戦争、貿易を通して、数多くの外部者がアテーナイと接点を持つようになり、アテーナイの植民諸都市もまた、母都市の影響を拡大させるにあたって貢献しました。



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古代アテーナイ帝国の植民都市




政治的には失墜しても、、



しかしアテーナイ帝国自体は実際、まもなく崩壊していきました。

アテーナイはまず、ペロポネソス戦争においてスパルタに征服され、その後、BC4世紀の中頃、他のギリシャ諸都市と共に、マケドニア王フィリップの支配下に入りました。

しかしこうした政治的権力の喪失にもかかわらず、アッティカ方言の影響力はその後も持続していきました。

そうです、アテーナイの言語は、アテーナイを征服する者たちの言語ともなっていったのです。



マケドニア王国



マケドニア王国は元々ギリシャの王国ではありませんでしたが、当時支配的だった文明――すなわち、アテーナイ文明――を取り入れました。

フィリップ王の息子であるアレクサンダー大王の家庭教師は、ギリシャの哲学者アリストテレスでした。



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アレクサンダー大王




そしてこの事実は、そういった当時の状況を表す一つの印にすぎませんでした。

破竹の勢いでアレクサンダー大王は東方世界全体を征服してゆき、こうして、マケドニア軍勢の勝利は同時にまた、アッティカ型ギリシャ語の勝利ともなっていったのです。




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アレクサンダー大王の遠征




東方世界のヘレニズム化



アレクサンダー大王の帝国は、BC323年の彼の死後すぐに崩壊しました。

しかし、分裂後生じた諸王国は――少なくとも宮廷や統治階級に関する限りにおいて――依然としてギリシャ諸王国でした。

ゆえに、マケドニアによる征服は、東方世界のヘレニズム化に他ならず、ないしは、すでに始まっていたヘレニズム化プロセスの相当な加速化を意味したのです。




ローマ帝国の行政語として




キリスト生誕以前の二世紀の間、ローマ人たちは地中海世界の東側を征服していきましたが、ギリシャ語自体に圧迫を加えようとはしませんでした。

いやそれどころかむしろ、こういった征服者たちの方がかえって、非征服者たちに「征服」されたといっても過言ではないでしょう。

それ以前にすでにギリシャの影響下に入っていたローマは今や、――少なくとも広大な帝国の東側において――行政語としてギリシャ語を使用し始めました。

当時のローマ帝国の言語は、ラテン語以上にギリシャ語が広く用いられていたのです。




世界言語となる




それゆえ、AD1世紀には、ギリシャ語は世界言語となっていました。

もちろん、当時さまざまな国で話されていた古代諸言語も依然として存続し続けていましたし、多くの地域は(二つの言語が同時に話される)バイリンガルな言語環境にありました。

つまり、ギリシャ語と共に、元来の地域諸言語も使われていたのです。

しかし少なくとも――帝国東部を含めた――ローマ帝国各地の大都市においては、ギリシャ語というのは誰にでも通じる言語でした。

そしてローマ自体にもギリシャ語を話す人々が大勢いました。

ですからローマ教会に宛てて書かれたパウロの手紙がラテン語ではなくギリシャ語で書かれたのも不思議ではなかったわけです。




変化




しかし、ギリシャ語は、その影響の爆発的拡大ゆえに、代価も払わなければなりませんでした。

そうです、征服事業の過程で、ギリシャ語はまた重大な変化をも経ることになったのです。

アッティカ方言以外の古代ギリシャ諸方言は、新約期が始まる前にすでにほとんど姿を消してしまっていましたが、こういった諸方言もあるいは、新しい統一世界のギリシャ語にかなりの影響を及ぼしていたかもしれません。

また、それよりは重要性においてかなり劣ると思いますが、外国諸語の影響ももしかしたらあったのかもしれません。

しかし、より些細ではっきりしない種類の諸影響が、実は力強く進行中だったのです。




新しいコスモポリタン時代の言語




言語というのは、それを用いる人々の知的・霊的慣習が映し出されたものです。

例えば、アッティカ散文というのは、――強烈な愛国主義と輝かしい文芸伝統によって統合された――小さな一都市国家の霊的生活を反映したものです。

しかしアレクサンダー大王以降、アッティカ語というのはもはや、「密接な連帯の中に生きる市民」という小さな群れの一言語ではなくなりました。

その反対に、この語は、非常な多様性をもつ人々の間で取り交わされる媒介言語となったのです。

ですから、新しいコスモポリタン時代のこの言語が、元来のアッティカ方言とは非常に異なる様相を帯びるようになったのも不思議ではありません。



コイネー



そしてアレクサンダー大王以降、普及し主流となったこの新しい世界言語はいみじくも「コイネー(“Koiné”, Κοινὴ Ἑλληνική)」と呼ばれています。

「コイネー」というのは「共通の」という意味で、BC300年頃から、古代史が幕を閉じるAD500年頃までに、多様な人々の一般媒介語として広く普及していたこのギリシャ世界語のことを指しています。




3つのグループ




新約聖書は、このコイネー期に書かれました。

言語学的にいえば、これは「七十人訳」と呼ばれる旧約聖書のギリシャ語訳と非常に近く結びついています。

この七十人訳聖書は、新約時代の少し前にアレクサンドリア市において出来上がったものです。

また、新約聖書のギリシャ語は、一般に使徒教父と呼ばれるクリスチャンたちによってAD2世紀初めに書かれた著作類とも非常に近い関係にあります。

この3つのグループの内、もちろん新約聖書の言語がもっとも優勢です。

しかし単なる表現手段に関していうなら、三者は同じところに属しているといっていいでしょう。

それでは、コイネーの発展というフレームの中において、これらのグループはどこに位置づけられるのでしょうか。




新約聖書ギリシャ語の特殊性




新約聖書のギリシャ語は、トゥキディデスやプラトン、デモステネスなどといった偉大なアッティカ散文作家のギリシャ語とは著しく異なっています

そしてその事実自体は別段、驚くことではないでしょう。

「何世紀もの歳月が経過したから」とか、「新しいコスモポリタニズムの誕生によって重大な変化が生じたから」等、容易にその理由を説明することができるからです。

しかし次に挙げる事実は、より注目に値します。

それは何かといいますと、新約のギリシャ語が――それより4世紀前に書かれたアッティカ散文作家たちのギリシャ語と異なっているだけでなく――、まさに同時代に書かれたギリシャ作家たちのギリシャ語とも異なっているという事実が明らかになったのです。

例えば、新約聖書のギリシャ語は、プルータルコスのギリシャ語と非常に異なっています。



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プルータルコス




なぜ異なっているのか?



以前には、こういった相違に対し、次のような仮説が打ち立てられていました。

――すなわち、新約聖書というのは、ユダヤ・ギリシャ方言――ヘブライ語やアラム語といったセム語系諸言語の影響を非常に強く受けたギリシャ語の形態――で書かれたのです、と。

しかし、近年になり、それとは別の説明が急速に趨勢を増してきています。





(後篇)につづきます。



J・G・メイチェンが21世紀のクリスチャンに熱く語る、聖書ギリシャ語[後篇]

砂漠を流れるいのちの川