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ヨハネ3:16 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」のコイネー・ギリシャ語




エジプトでパピルス文書発見される




以前には、こういった相違に対し、次のような仮説が打ち立てられていました。


――すなわち、新約聖書というのは、ユダヤ・ギリシャ方言――ヘブライ語やアラム語といったセム語系諸言語の影響を非常に強く受けたギリシャ語の形態――で書かれたのです、と。

しかし、近年になり、それとは別の説明が急速に趨勢を増してきています。


そうです、この説明は、エジプトで発見された「非文学的なパピルス文書」によって趨勢を増してきているのです。


つい最近まで、学者たちは、コイネー・ギリシャ語というのを、もっぱら文学作品を通してでしか知りませんでした。

しかしここ20-30年というもの、前述したようなパピルス文書がエジプトで発見され始めたのです。


エジプトの乾燥した空気により、古代の繊細でもろい筆具でさえも保存されており、遺書や領収書、嘆願書、プライベートな個人の手紙類といった大量の資料がすでに見つかっています。




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エジプトのOxyrhynchusで発見されたコイネー・ギリシャ語のパピルス文書。内容はなにかというと、あるお医者さまが、患者さんに書いた「処方箋」だそうです!




こういった文書は、「文学作品」ではありません。


これらの多くは、「一度目を通したらそれで終わり」というような種類の書き物でした。

ですから、そこに書き記されている言葉は、書籍のような洗練された言語ではなく、日常的な考えを伝える「実際的な話し言葉」が示し出されているのです。




文語と口語との間のギャップ



そしてプルータルコスなどの作家たちのギリシャ語と、パピルス文書のギリシャ語との間に存在する重大な相違は、新たな明瞭さをもって次のような興味深い事実を私たちに露呈することになったのです。


すなわち、ローマ時代、文学の言語と、日常の言語には大きなギャップがあったということです。

その時代の文芸人たちは、それなりの厳密さもって、アッティカ時代の偉大なるモデル作家の文体を模倣していました。

こうして彼らは[擬古文的]人工的な文学伝統を保持していました。


その一方、非文学的なパピルス文書の無名な書き手たちは、誰の模倣もしていませんでした。

そうです、彼らは気取らず、界隈で話されている自分たちの言葉で、ただシンプルに自らを表現していたのです。




新約聖書ギリシャ語のシンプル性




そして――さまざまな点で、コイネー期同時代文学の言葉との間にさえ違いのみられる新約聖書の言葉は、この非文学的なパピルス文書の文体と一致していることが分かったのです





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最近発見されたパピルス文書をデジタル化し、研究しておられる新約学者のダニエル・ウォレス氏。このようなクリスチャンたちの地道な努力により、生きたコイネーの全貌が、ますます明らかになってきています。





そしてこの発見により、「なぜ新約聖書の言語には明らかな特殊性があるのか?」という従来の問いに対する新しい仮説が提示されることになりました。


すなわち、現代の読者にとって新約聖書のギリシャ語が特殊に思われる理由は、「つい最近まで、ローマ期における〈文語〉と〈口語〉の区別に対する私たちの知識が著しく限られていたからに他ならない」ということなのです。


実際、新約聖書は、ギリシャ語世界全体にひろがる諸都市で話されていた民衆的文体でシンプルに書かれていたとされています。




自然で生きた言語




この仮説には疑う余地のないほど明確に、真理のある大きな要素が含まれています。

確かに新約聖書の言葉は、文芸的な人工的言語ではなく、ユダヤ・ギリシャ的専門用語でもありませんでした。


そうではなく、それはその時代の自然で、生きた言葉だったのです。


しかしだからといって、セム語的な影響を過小評価してはなりません。新約聖書の記者はほぼ全員、ユダヤ人であり、彼らは皆、旧約聖書から強い影響を受けていたからです。


特に――言語に関していえば――新約の言語は七十人訳聖書の影響を受けています。

そして七十人訳は、大半の古代訳と同様、原典の言語の影響を受けています。

七十人訳はイスラエルの宗教に関するもっとも深遠な事柄を表現すべく、ギリシャ語の語彙を造り出し、大いに貢献しました。そしてこういった語彙は、新約聖書の中においても非常に影響力を持っていたのです。




新約記者たちの独自性




さらに、新約聖書の記者たちの独自性も見落としてはなりません。

彼らは、新しい信仰上の確信という影響を受け、新しい言葉を持していたのです。

そしてこういった新しい確信は、言語という領域においても彼らに影響を与えました。


ありふれた一般的な言葉には、新しく、より高尚な意味が付与されなければならず、平凡な人々も、新しく栄光に満ちた体験により、より高次の領域に引き上げられる必要がありました。


だからこそ、新約聖書と、エジプトで発見された文書には、文体においても言語的類似性が見いだされるにも関わらず、後者の書簡集は、前者のそれとは非常に異なっているのです。




平凡な言葉で非凡な思想を表す




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新約聖書の記者たちは、その当時の平凡で、生きた言葉を用いていました。


しかし、彼らはそれらを用い、非凡な思想を表現し、そして言語そのものが、その過程において、ある意味、変えられていったのです。。

例えば、パウロの書簡集は――その中の最も短くシンプルなものであってさえも――エジプトで発見されたパピルス書簡の山にみられるような、単なるメモ書きの類ではなく――、使徒から神の教会に宛てて書かれた書簡です。


このようにして、ギリシャ・ローマ世界のコスモポリタン民衆語は、歴史の中でその役割を果たしました。

それは人種的、言語的障壁を打ち壊し、そしてその言語生命のある時点において、ついに高められたのです。





ー終わり―






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「文法は苦手。でも聖書ギリシャ語を学びたいなあ」と思っている方へ




そういう方には「音から入る」ことをおすすめします。

というのも、私自身、文法が苦手で、文法書を読んでもさっぱりわからないからです。

私は、英語や日本語とまったく同じような感覚で、コイネー・ギリシャ語の新約audioを聴いたり、詩篇歌を歌ったりしながら、なんとなく自然に学んでいきました。

ですから、聖書ギリシャ語は私にとっては、死語ではまったくなく、生きた「現代語」なんです!


たとえば、ヨハネ6:35でイエスさまは、「わたしがいのちのパンです」とおっしゃっています。


この部分の原文は、[現代ギリシャ式発音でいけば]


エゴ イミ  オ アルトス ティス ゾイース」です。


そういう音の流れです。


「オ アルトス」というのは「パン(The Bread)」という意味で、「ゾイース」というのは「いのちの」という意味です。そして「エゴ イミ」は「I am~」です。


それから、「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:11)は、


エゴ イミ   ピミン  カロス

という音の流れです。


「オ ピミン」は「牧者」そして「カロス」は「良い」です。


前にもお話しましたように、私は文法が苦手です。

そしてなぜ「ピミン」と「カロス」の前にそれぞれ「オ」が付いているのかを人に説明することはできません。

「うーん、それはそうだから、そうなの。」という答えしかできないのです(笑)。


でも音として、そしてリズムとしてそれが自分の頭や心に、いい感じでなじんでいるため、たとえば、「悪い牧者」はコイネーでどう言うのかな、と思ったとき、

「♫ オ ピミン オ カコス」となんとなく、すぐに口をついてでてくるのです。(*カコス=悪い)


ですから、地球上に存在するギリシャ語learnerを「文法しっかり派」と「なんとなく派」に大別すると、私は後者の王女です!


そういうわけで、「自分は《文法しっかり派》かな?」と思う方は、例えば、ダビデの日記の「聖書ギリシャ語カテゴリー」の記事などで良い学びをすることができると思います。


一方、「私は、《なんとなく派》かも、、、」と思う方は、たとえば、下のようなVTRを見たり、聞いたりしながら、私といっしょに、だんだん、「なんとなく」習得していくことができると思います。



これは[現代ギリシャ語式]アルファベット発音です。




歌もありますよ:)




それから、これはR・ブースさんの開発したLiving Koine Greekの音声付きフラッシュ・カードです。





それから、これはヨハネの福音書1-6章のKoine Audioです。




静寂と沈黙のうちにあることの意味―クリスチャンとsolitary place

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