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ΒΙΒΛΟΣ―、さて、私はこれを「ビブロス」と発音しようかな?
それとも、「ヴィヴロス」と発音しようか?
うーん、こまった。。。





前回の記事の中で、私は「文法は苦手。でもぜひ聖書ギリシャ語を学んでみたい」と思っていらっしゃる仲間のみなさんに「音から入りましょう♪」とお勧めしました。


でもそうなると、次のような疑問が湧いてきます。


「それじゃあ、私はどんな音を聞けばいいんだろう?どんな発音法を選択し、どんな発声をしていけばいいんだろう?」


☆☆


4つの発音法




ギリシャ語には大きく分けて4つの発音法があります。



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1.エラスムス式発音法(Erasmian Pronunciation

2.歴史的アッティカ発音法(Historic Attic Pronunciation

3.歴史的聖書発音法(Historic Biblical Pronunciation

4.現代ギリシャ語式発音法(Modern Pronunciation




おそらく、日本の大学の西洋古典学科や神学校の多くは、1のエラスムス式発音法を採用しているのではないかと思います。







ヨハネ1:1をエラスムス式(=古典ギリシャ語式)に発音すると↑のようになります。

エン アルケー エーン ホ ロゴス
カイ ホ ロゴス エーン プロス トン セオン
カイ セオス エン ホ ロゴス






そもそも「発音」って大切なのかな?



しかしながら、どの発音法を選ぶかということを考える前に、もう一つみなさんとご一緒に考えてみたいことがあります。


それは、発音はそもそも大切なのかどうかという点についてです。


ある言語をどのように発音するかというのは大事なのでしょうか。それとも、それは枝葉末節な問題なのでしょうか。


例えば、日本語には〔th]の発音がありません。


ですから、考える(think)という動詞の発音は、私たち日本人にとってはけっこうやっかいです。


そのため、日本人が「I think」と言う時、ネイティブの英語話者には、それが「私は沈む(sink)!ああ、沈んでしまう!(アイ シンク!アイ シンク!)」と言っているように聞こえる場合があるそうです。


でも英語をコミュニカティブな視点で捉えず、「私はあくまでシェークスピアの作品を原語で読めるようになればそれでいい」という目的をお持ちの方なら、thinkを「thンク」と英語風に発音しようが、「シンク」と和風に発音しようが、それはある意味、「どうでもいいこと」なのかもしれません。


そのように「原書を味わう上で、発音は特に大切ではない」という視点に立ってものごとを考えた場合に、私がまっさきに思い出すのは漢詩です。


たとえば、以下は杜甫のあの有名な「春望」の一節です。



杜甫春望


國破れて 山河在り
(くに やぶれて さんが あり)

城春にして 草木深し
(しろ はるにして そうもく ふかし)




このようにして私たち日本人は、発音も文法構造も異なる中国の詩を、見事に内面化し、和風の発音でこのように抒情的に詠い上げているのです。

これは本当にすばらしいことだと思います。


ここで、小坂永舟氏による「春望」吟詠の美しい調べを聴くことができます。



しかし別のある人は、こう考えるかもしれません。


「私は杜甫の詩が大好きだ。

でもできることなら、返り点などに頼らず、ネイティブの中国人が読むようにストレートに漢詩を読み、

中国人が発音するように杜甫の詩を朗読し、詠い上げてみたい!」


さあ、みなさんはどうでしょう。


新約聖書のコイネー・ギリシャ語をどのように発音したいのかという点に関しても、同様のことが言えるような気がします。


☆☆


これについて、『新約聖書ギリシャ語小辞典』の編者織田昭氏が、次のような印象深いことを言っておられます。


新約聖書の内容、特に、その福音的使信を読み取ることを目的としてギリシャ語の聖書を読む場合、発音のことはそれほど大切だろうか、という疑問が当然起こってくる。


元来、新約聖書の研究者は、聖書の時代の言語学的環境の考証や、パウロの説教の音声学的再現に興味を持っているのではなく、この書の中から、自己の霊的生死にかかわる福音的内容を読みとろうとするのであるから、印刷されたギリシャ文字をどう発声するかということは、実は「どうでもよい」第二義的なことである。


しかし、にもかかわらず、わたし自身の意見では、新約ギリシャ語を学ぶ際には、発音のこと(実際に音に出して朗読すること)は無視すべきではない。

否、はなはだ大切なことである。


というのは、決して読む人がギリシャ人の発音どおりに、あるいは一流のギリシャ語学者や音声学教授のされるように正確に、きれいに発音せねば、という意味ではない。


どんな読み方でも、どんなに不完全でもかまわないから、できるだけ口に出して発音、朗読し、口と耳とを通して新約聖書の言語に親しむことが大切である、という意味である。


これは人間の「言語」というものを学ぶ際の必須条件であり、一つの言語の持つ、生きた思考様式に自然に慣れていくためにも大切なことである


☆☆


「死語」という言葉がある。


しかし私たちがその言語の世界に入り込み、その思考形式によって思考しようとするとき、死語なるものはもはや存在しない。


要は、その言語を読む者自身が、それを死語とするかしないかであって、ひとたび私たちが言語の生きた思考形式の中に入り込んでいくとき、死語も復活するのである。


この意味で、新約聖書のギリシャ語を生き生きとした、身近な、リアルな、生きた言語として捉えるために役立つ一つの手段は、これを常に実際に発音して、音声として自分の口で再現し、また自分の耳で聞くことである


発音されざるコイネー・ギリシャ語は、演奏されざるモーツァルトの楽譜のごときものである。



織田昭 「新約聖書ギリシャ語の発音について」p652~53





次につづきます。




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