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みなさんに質問です。


今の日本に、レコーダーを始めとする録音機器が一切存在しないと仮定してみてください。


それどころか、テレビもラジオも何もありません。つまり日本人は皆、アーミッシュのように生活しているのです。



さて、タイムスリップし、今ここは2516年の未来の日本です。


そして、ある未来の言語学者が、テレビ番組でしきりに、「21世紀初めにも、日本人は依然として、『わたしは、田中です』を「ワタシha、タナカ デス」と発音していました」と主張しています。


あなたは心の中で「それ、絶対違うやろ」と叫びます。


さあ、21世紀初頭に、「わたしは」の「は」が、「ハ」ではなく「」と発音されていたことを、みなさんなら、どのように立証しますか?


私なら、日本語学校のアーカイブ書庫に直行すると思います。


そして、外国人学生の書いた答案やエッセーなどを大量に収集し、そこに溢れているであろうスペル・ミスに注目します。


サンプル1) きょー、わたし、おとーさんに会いました。

サンプル2) わたし、せんせーがすきです。




特に初級クラスの学生さんたちの答案は、音声学的にいえば、「生きた日本語」を映し出す最高の鏡です。


なぜなら彼らは、まだ、書き言葉の制約を受けておらず、巷で日本人が普通に話している生の日本語を聞き、それをそのまま素直に書き表しているからです。





パピルス文書と民衆の「スペル・ミス」




そして、なんと初級日本語クラスで起こっていることと同じことが、コイネー期のエジプトで繰り広げられていたのです!


そうです、発見された無数のパピルス文書はまさに、コイネー版「アーカイブ書庫」だったのです。


かわいらしいスペル・ミスがこれでもか、これでもか、という位、わんさか出てきて、ダニエル・ウォーレス博士たちのような聖書学者を狂喜させました。(←たぶん)





αιε




それではそのアーカイブ書庫を少し覗いてみることにしましょう。


BC5世紀の古典期には、αι は、〔アイ〕、ε は〔エ〕と発音されていました。


つまり、「そして」を意味する και は〔カイ〕と発音され、「時期、時代」を意味する αιων は、〔アイオーン〕と発音されていました。


さて、サンプルとして以下に挙げるのは、エジプトや死海近辺で発見されたパピルス文書から採取された、民衆のスペル・ミスの一例です。



        スペル・ミス    正字 

Papyrus 99.4 (BC154)   ειδηται     ειδητε
Ben Kosiba line11        ποιησηται   ποισητε
Babatha 16.16(AD127)  αινγαδδων  (属格 複数形)
Babatha 11.1(AD124)   ενγαδοισ  (与格 複数形)
Babatha 37(AD131)    εταιροισ    ετεροις
Babatha 24.18 (AD130)  αποδιξε      αποδειξαι




つまり、こういった実証資料から、次のような音声学上の発見があったのです。



αιは、前4世紀頃よりエ音化し、前3世紀のアレクサンドリアではすでに[e:]と発音されていた。(織田)

コイネー期の地中海世界一帯で、αι は、ε と同じ発音であった。(R.Buth)




つまり、「そして(και)」と言う時、古典期のプラトンたちが、「カイ」と発音していたのに対し、ペテロやパウロやテモテは、「」と発音していたということが音声学的に実証されたわけです。


その他、コイネー期の〔ει〕と〔ι〕、〔ω]と〔ο]、〔οι〕と〔υ〕それぞれの音声についての実証研究およびケース・スタディーについては次の論稿をお読みください。


Randall Buth, Koine Pronounciation, Notes on the Pronounciation System of Koine Greek





コイネー期の発音





そういった実証研究から、新約聖書が書かれた時代のコイネー・ギリシャ語の発音がおおよそどのようなものであったかが分かってきたのです。ワクワクしますね!


それを以下、簡単にまとめてみます。


αιε は同じ発音

ειι は同じ発音

ωο は同じ発音 註1

οιυ は同じ発音  註2



β は〔v〕と発音。(古典期は〔b〕)

θ は〔th〕と発音。

φ は〔f〕と発音。

χ は〔ch〕と発音。(Bachとドイツ語発音した時のch音。あるいはそれより幾分弱い音。)

η は〔e:〕もしくは〔i〕。註3



*それから新約コイネー期には、硬気息(‘)はすでに発音されなくなっていました

豆つぶのようなこの硬気息符というのは、語が〔h〕音によって始まることを示す記号です。(例えば、ὃ =ホ、ἃ=ハ)

ということは、コイネー期には、ἁμαρτια(罪)は、ハマルティアではなく、アマルティアと発音されていたということですね!






註1.古典期には、〔ω]は長母音の〔オー〕、それに対し〔ο]は短母音の〔オ〕でしたが、コイネー期にはそのような長母音・短母音の区別もほとんどなくなっていたようです。これについてさらに詳しく知りたい方は、上述の論稿のPhonemic Vowels in Koine Greekの Pair 3 の項をお読みください。




註2.〔υ〕は、元来、地域的偏差があって、〔y〕とも〔u〕とも発音されていたそうです。〔οι〕と〔υ〕は、現代語では〔i〕音で発音されていますが、コイネー期には、まだ古い発音がなされていたようです(織田、Buth)。

したがって、結論として言えるのは、コイネー期の〔οι]と〔υ]の発音は、だいたいドイツ語の「u ウムラウト」の音だったと考えていいと思います。口の形は「ウ」にしつつ、がんばって「イ」と発音してみてください。それが「u ウムラウト」の発音です:)




註3.コイネー期の η の発音については学者によって意見が分かれています。というのも、ヘレニズム期に、この音が元々の〔e:〕から、どんどん〔i〕音に変遷していったことは確かなのですが、使徒時代はちょうどその過渡期だったからです。

朗読を聞くと、Buth氏は、η をどちらかといえば「エー」に近い音で発音しておられます。

その一方、織田昭氏は「新約聖書が記された頃は、すでに η は〔i〕と発音されていた」とおっしゃっています。

ですから、使徒時代には、αγαπηを「アガペー」と発音する人と、「アガピー」と発音する人が混在していたのかもしれませんね。しかしAD3世紀までには、ほとんどの人が「アガピー」と発音するようになっていたことは最近の研究で明らかになっています。



まだ続きます。

生きたコイネーの世界へようこそ!(3)――復元コイネー式発音で楽しく聖書を読んでみよう!【実践編】

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