1コリント11章「女のかしらは男」、エペソ5章「夫は妻のかしら」に記されている「かしら(head, :ケファレー)」に新しい意味解釈を施そうという動きが、フェミニスト神学者たちの間にあります。


それは、1954年に刊行されたS・ビデイル氏の論稿 "The Meaning of κεφαλή in the Pauline Epistle," JTS 5 に始まり今日に至るまで、さまざまなフェミニスト神学者によって取り上げられ、その影響はすでに、日本にも及んでいます。


以下は、ある日本のクリスチャン・サイトからの引用です。筆者は、対等主義を支持する立場から次のように論じておられます。



引用元:信仰の女性たち:今日の教会における女性


パウロは第1コリント11章で、「妻のかしらは夫」[日本語訳聖書では「女のかしらは男」]であると告げています。これは、妻が夫の下の立場にあると教えていると解釈することもできます。


「あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」


エペソ5章にも同様のことが描かれています。


「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」


パウロの教えていたことを理解する上で鍵となるのは「かしら」の意味です。


このかしらという言葉はギリシャ語で「ケファレー」といいますが、古代ギリシャ語において「指導者」や「長」という意味で用いられることはほとんどありません川の源といった使われ方で「源」を意味することがよくありました。[英語の head=かしら・頭 には、ギリシャ語のケファレーと同様、源・水源という意味もあります。]


パウロは第1コリント11章で、エバはアダムのあばら骨の一つから造られたと書かれている創世記2章に言及しています。


つまり、男は文字どおり女の「源」というわけです。同様に、父なる神は御子の源であり、イエスは教会の源です。パウロは、すべての男の源(ケファレー)はキリストであり、女の源は男であり、キリストの源は父なる神であると言っていたのです。[15]


15 Alan F. Johnson, ed., How I Changed My Mind About Women in Leadership (Grand Rapids: Zondervan, 2010), 230.

〔*強調や傍線は私によるものです。〕






伝言ごっこ



このかしらという言葉はギリシャ語で「ケファレー」といいますが、古代ギリシャ語において「指導者」や「長」という意味で用いられることはほとんどありません。川の源といった使われ方で「源」を意味することがよくありました。




まず筆者の方は、「ケファレー」が、古代ギリシャ語において「指導者」や「長」という意味で用いられることはほとんどありませんと、はっきり断じておられます。


しかしながら、まず、そう断じることのできる論拠はどこにあるのでしょうか。


私の調べる限り、こういった「かしら=源」説は、だいたい以下のフェミニスト神学論文を出処にしていると思います。


1.Berkeley and Alvera Mickelsen, "What Does Kephale Mean in the New Testament?" in Women, Authority, and the Bible, p 97-110

2.Payne, " Response" in Women, Authority and the Bible, p 118-32

3.Bilesikian, "A Critical Examination of Wayne Grudem's Treatment of Kephale in Ancient Greek Text", appendix to Beyond Sex Roles, p 215-52

4. C. Kroeger, "The Classical Concept of Head as "Source", appendix 3 in Equal to Serve, p 267-83

5. G. Fee, First Epistle to the Corinthians (1987), p 501-5

6.C. Kroeger, "Head" in Dictionary of Paul and His Letters, p 375-77

7.Brown, Women Ministries, p 213-15, 246





こういった一連の動きは、私に「伝言ごっこ」ゲームを思い起こさせます。


「『ケファレー』っていうギリシャ語はね、〈長〉とか〈指導者〉っていう意味よりはむしろ、〈源〉っていう意味合いが強いらしいよ」と初めの人が、隣の人の耳にささやきます。


そうすると、それを聞いた次の人は彼女の隣にいるまた別の人の耳にこうささやきます。


「あのね、『ケファレー』っていうギリシャ語はね、〈長〉とか権威あるとかいう意味はなくて、元々は〈源〉がメインの意味らしいよ。」


その人はさらに隣の人にこう言います。


「あのね、『ケファレー』っていうギリシャ語には権威(authority)の意味合いはなくて、川の源とかそういう使われ方が普通だったんだって。」




釈義的誤謬―Word-study fallacies



「ケファレー=源」というフェミニスト神学者側の字義解釈について、D・A・カーソンは、Exegetical Fallaciesの中で次のように述べています。



、、どんな(聖書)解釈であれ、言葉の意味を、ヘレニズム期のギリシャ語における用法以上に、古典期のギリシャ語に依拠し、字義解釈を打ち立てていこうという試みにはやはり警戒する必要があるだろう。


たとえば、Christianity Todayの論稿の中で、Berkeley&Alvera Mickelsenは、1コリント11:2-16の「かしら」の意味を「源」(source or origin)だと主張している。


しかし、彼らの主張は、新約聖書およびヘレニズム期のギリシャ語辞典(Bauer)ではなく、古典期ギリシャ語のリーデル・スコット大辞典(LSJ)に基づいているのである


そして前者の辞典(Bauer)は、新約聖書期においてκεφαλήの項に、一切「源」の意味を記載していないのである


また、Mickelsens氏らは、〔古典期〕LSJ辞典でさえ、その証左に制約を設けている事実について触れていない。


彼らは川の「源」を表す語としてhead of a riverという辞典の用例を非常に重んじているが、LSJ中に引用されているそういった用例はすべて、κεφαλαί(heads)という複数形である。


そして単数形のケファレー(κεφαλή)が川として述べられている時には、それは川口(river's mouth)に言及するものである。


ちなみに、LSJに記載されている、単数形κεφαλήが「源」を意味する唯一の用例は、BC5世紀もしくはそれ以前の資料(Fragmenta Orphicorum)であるが、これは文献的にも不明瞭で、また複数の訳が存在する文献である。(参照:Wayne A. Grudem in Trinity Journal 3 (1982):230)


D.A. Carson, Exegetical Fallacies, "Word-Study Fallacies", p.36-37





また、Wayne Grudem氏は、Evangelical Feminism and Biblical Truth のappendix 3と4および6章の多くのページを割いて、このケファレー問題に取り組んでおられます。


1985年に、Grudem氏は、BC8世紀のホメロス作品からAD4世紀の初代教父著作集に至るまで、それらの作品の中で用いられている2336件に及ぶκεφαλή(ケファレー)の全用例を徹底検証されました。そしてその結果として次のように言っておられます。


こういったテクストの中でケファレー(κεφαλή)は、(この語が、Aという人がBという人のかしらであるということを表現すべく、比喩的な意味で用いられている場合)、多くの権威者に対して適用されており、治める権威(governing authority)を持たない人に対しては決して適用されていなかったのです。


Wayne Grudem, Does Κεφαλή (“Head”) Mean “Source” Or“Authority Over” in Greek Literature?: A Survey of 2,336 Examples, Trinity Journal ns 6.1 (Spring 1985): 38-59




こうして、「ケファレーは、古代ギリシャ語において『指導者』や『長』という意味で用いられることはほとんどありません。」というフェミニスト神学者側の主張には文献的にも何ら根拠のないことが明らかにされました。





おわりに



先日、聖書信仰のギリシャ人クリスチャンに、欧米の一部のクリスチャンの間で『ケファレー=源』説が唱えられている旨を話したところ、その方は一言、「あり得ない、、」と言ったきり、驚きの余り絶句しておられました。


というのも、κεφαλή(ケファレー)の「① 頭 ②[比喩的に]かしら、支配者、主、権威の所在」(織田)という基本的意味は、新約聖書が書かれた時代から今日まで変わっておらず、それがネイティブのギリシャ人信者にとって、ごく自然な字句の受け取り方だからです。


いいえ、それだけではありません。


そもそも、1コリント11章やエペソ5章のケファレーが「源」を意味しているのだったら、なぜパウロは、πηγή(ペゲー:源、source)という語をストレートに用いなかったのでしょう?


パウロはなぜ、自然な解釈ではまず「源」とは解釈できないケファレーのような語を用いようと思い立ったのでしょう?


なぜそんな回りくどい、謎かけのような、嫌味なことをしなければならなかったのでしょう?


というのも、ペゲーこそ、ギリシャ語で言う、正真正銘の「源」なのですから!


ここの箇所の「かしら」を「源」と読み込ませるのは、あまりにも強引で無理な解釈を言わざるを得ません。



☆☆


聖書の中で啓示されている「かしら」という語に権威という意味が付与されていることを拒絶すべく、人々は字句の自然な解釈に背を向け、そこに新たな意味を植え付けようとしています。


しかしながら、それは男女における美しい創造の秩序を破壊する行為であるにとどまらず、「力あるみことばによって万物を保っておられる」(ヘブル1:3)キリストの権威と栄光にも拳を突き上げる不敬行為につながるのではないかと、私は非常に危惧しています。


なぜなら「夫は妻のかしらである」ことを述べている同じ節で、聖書は「キリストが教会のかしらである」という深遠なる真理を啓示しているからです。


かしらの意味を自分勝手にいじくりまわすことで、私たちは教会のかしらであるキリストの権威と威光に異議を申し立てるというおそろしい罪を犯してしまうのではないでしょうか。



祈り

主よ、どうか私たち一人一人を誤った聖書解釈や教えから守ってください。そして真理と誤謬を見分ける識別力を与えてください。あなたの栄光が全世界で輝きますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。



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かしら(head,κεφαλή)の意味は「長 "authority"」ではなく、「源 "source"」だった?―この問題がなぜ今、大切なのでしょうか〔後篇〕

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