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結婚生活の中での祈りはすばらしいものです。


しかし、ここでみなさんとご一緒に考えてみたいのは、次のことです。


つまり、「主人は霊的リーダーなんだから当然すべきよ」と私たちが信じ考えている一連のことは、はたして本当に聖書が夫に命じていることなのでしょうか。


「夫が率先して祈りを導いてくれない」「『最近、君の霊的調子はどう?』とか、そういうスピリチュアルな気遣いをしてくれない」「一緒に聖書を開いて、みことばを分かち合うこともしてくれない」――


そうして私たちは、夫に対し憤慨したり腹を立てたりしてしますが、それははたしてどうなのでしょうか。


もしかしたら、私たちの夫は個人的な祈りの方を好んでいるのかもしれません。


また、主人は、私たちの態度や言動をみて、私たちの霊的状態を察し、それで、わざわざ「君の霊的調子はどう?」と訊く必要性を感じていないのかもしれません。


「主人たる者は、こうこうすべき」という一連の考えは、どこから来ているのでしょうか。


もしかしたら、「霊的リーダー」についての私たちの定義は、今一度、再考されるべきなのではないかと私は感じています。



☆☆


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もしかしたら、、、もしかしたら、私たちは不当にも、夫を責め、批判し、彼に対して憤っているのかもしれない、、そう考えたことはありますか。


夫が私の期待通りに動いてくれないという理由で、私たちは自分たちの主人に対して苦々しい思いや憤りの気持ちを積もらせているのでしょうか。


しかも、そういった「期待リスト」の項目が、聖書には明記されていない場合もけっこう多いのです。


個人的な祈りをしていない信仰者にはたしかに問題があります。しかし、もしもクリスチャンの夫婦がそれぞれ個人的には祈っているけれども、一緒には祈っていない場合、それは罪深いことなのでしょうか。


妻と一緒に祈り、妻と共に聖書を読んでいないような夫は、敬虔なリーダーにはなり得ないのでしょうか。





自省と黙想



―自分の心にある、夫に対する苦々しい思い、批判的な精神、軽蔑、憎しみなどは、明確な罪となり得るかもしれない。


―結婚や家庭生活のかじ取りを自分がしようとすることは、やはり罪なのかもしれない。


―一緒に祈るとか、聖書の学びとか、そういうことで夫の霊性を判断しようとすることはやはり罪だと思う。


―霊的なセキュリティー(安定)を、キリストの中に見いだす以上に、夫との霊的活動の内に見いだそうとする試みもやはり問題だし、罪になり得ると思う。




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こういった問題にサタンはつけこみ、私たちが心の中で罪を犯すようしむけ、こうして敵は私たちの結婚・家庭生活を破壊しようとしているのではないでしょうか。


そしてサタンは、こういった「霊的な事柄」を使って、私たち夫婦の間に行き違いや仲たがい、心痛などを引き起こさせようとしてはいないでしょうか。


☆☆


現在、自分と夫との関係がどのようなものであれ、私は、(自分も含めた)みなさんが、以下の項目をお読みになり、静かに自問する時を持たれることを望みます。



―私は、もろもろの自分の期待をいったん脇に置き、キリストと自分自身の歩み(従順、信仰、責任、みことばの黙想、自分の罪、祈りの生活)に集中しようと望んでいるでしょうか。


―私は、[自分ではなく]あくまで神様が、ご自身の判断に従い、主人の人生の内に働いてくださることを進んで認めようとしているでしょうか。

そして彼に何かをすることを強要せず、今ある状態の彼をそのままで受け入れてあげようとしているでしょうか。

そして、、、たとい、このプロセスが一生涯続くものであったとしても、そして自分の主人が今後もずっと自分と一緒に祈ってくれなかったとしても、、、それでも私はこういった神様のお取扱いに「Yes」と応答し続けるでしょうか。


―私は、キリストの内にのみ満足を見いだし、そして個人的な祈りの内に十分な満足を見いだすことを望むでしょうか。

「誰か敬虔な姉妹が祈りのパートナーとして与えられますように」と祈ることができるかもしれません。

しかしたといそのようなパートナーが与えられなかったとしても、それでも依然として、私はキリストの内にあってのみ満ち足りることを望むでしょうか。




おわりに


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あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。詩篇27:8




鍵は、とどのつまり、祈りというのが本来、夫の「臨在」ではなく、あくまで神様のご臨在の前でなされるものであるということではないかと思います。


神様さえ私たちの祈りを聞いてくださるのなら――それこそ一番大切なことではないでしょうか!


それに、もし自分の夫が毎日きちんきちんと私と共に祈ってくれても――私が自分の感情的・霊的ニーズすべてを主人によって満たしてもらおうと依拠している限り――私は決して満たされることはないでしょう。


そういう私は常に「もっと欲しい、もっと欲しい」と枯渇し続けるはずです。


自分の主人が一緒に祈ってくれるか否かということは、ですから、最重要課題ではないのです。


もちろん、そうであったらどんなにすばらしいでしょう。しかし自分にとって、イエス様との私的で親密な交わりの時ほど大切なひとときはありません。本当にこれなしにはやっていくことができません。


イエス様は霊的にも感情的にも、いつも私とつながっていてくださいますし、そうすることのできるお方です。


主は毎瞬間、自分の内にあるもっとも深いニーズに答えることがおできになる方です。


そして主は決して私を見放したり、失望させたりなさいません。


ですからこの方だけが私のまことの必要なのです!そしてイエス様は主人にとっての最大の必要でもあられます。


そうです、イエス様がいてくだされば、私たちは充足することができるのです!



―おわりー

アレオパゴスの丘で考えたこと

「ああ、主人がもっと私と一緒に祈ってくれたらいいのに、、、」【クリスチャン女性とcontrol願望(1)】byエイプリル・カスィディ