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Is Truth Really Plural? Postmodernism in Full Flower





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執筆者:アルバート・モーラー(南部バプテスト神学大学 学長)






ポストモダンからの挑戦のまさに中核部分に、「真理についての問い」というのが立っています。


人間思考における重大なシフトというのは、肯定的な要素、そして否定的な要素、その両方を包含しているのが常ですが、ポストモダニズムもまたその例外ではありません。




肯定的な面



肯定的な面でいえば、ポストモダニズムの差し出す一般的〈世界観〉というのは、私たちに、「自分たちが文化的・言語学的諸システムの中に深く根付く存在であり、そういったシステムが私たちの考え方を形成し、影響を与えるものである」ということを気づかせてくれます。


さらに、ポストモダニズムは、認識論的な私たちの驕りに反省を促し、矯正する機会をも提供するかもしれません。――「認識論的な驕り」とは、自分たちの思考や真理の宣布において、早まった断定をしてしまう傾向のことを指します。





否定的な面



その一方、ポストモダンのネガティブな側面でいえば、これは往々にして、真理というコンセプトそれ自体を転覆させ、破壊し得るものです。


実際、どんな客観的な形であれ、真理を拒絶するという行為は、ポストモダニズムがキリスト教信仰に突きつける甚大かつ最も深刻な挑戦の一つだと言っていいでしょう。


もちろん、こういった挑戦からなされる問いは、健全かつ忠実な認識論的へりくだりへと私たちを導く場合もあり得ます。


しかしながら、ポストモダニズムがもたらしている、より一般的(かつ危険な)影響は次のようなものです。


――つまり、これは実に巧妙に、私たちの内に、非常に危険な形での「認識論的へりくだり」を植え込もうとしています。


そしてその影響下に入った人々は、とどのつまり、真理というのを私たちは知ることができないのではないかという不信に陥りがちなのです




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近年、ジョン・R・フランケ氏(ペンシルベニア州ハットフィールドにあるBiblical Theological神学校の教授)は、こうしたポストモダン世界観の主唱者の一人として、活躍しておられます。




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イマージング・チャーチ運動の重鎮として、フランケ氏はまた、現代福音主義に対し、無視することのできない重要な批判を提出しておられます。


新刊書 Manifold Witness: The Plurality of Truthにおいて、フランケ氏は、ポストモダン論をさらに前面に打ち出し、「真理を理解する」という点で、全く新しい方法を提供しようと試みておられます。


彼の主張によれば、真理というのは、生来的に複数形のものだ(inherently plural)というのです。




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キリスト教は多元論者か?




フランケ氏は、次のように説明しています。


キリスト教信仰における多様性というのは、『克服されるべき問題』という風に捉える必要はありません。


その反対にむしろ、こういった多様性というのは、――この世における神のかたちとしてみからだとしての――キリスト教会のために備えられし「神による聖意図」の一つなのです。


ですからキリスト教における多様性というのは良いものであり、葛藤しつつ克服すべき何かではないのです。





これはまことに驚くべき主張です。実際、フランケ氏は、「多元主義を受容する」という彼のその行為自体が、「彼自身のポストモダン文脈の所産である」ということを自覚しているわけです。


前世代のクリスチャンは、多元主義的な真理の主張・教義的信条・神学システムといったものに対しては、これらを「挑戦」と受け止め、それらの真理に対する説明や識別を求めていました。


しかし、今や、フランケ氏は、それを、受容されるべき条件として捉えているのです。


☆☆


「初期プロテスタント教会は、多様性で特徴づけられていましたが、だからと言って、プロテスタント教徒が多元主義者であったという訳ではありません」と彼は譲歩して言っています。


「ええ、彼らはそうではありませんでした。彼らはローマ・カトリック教会に対抗し、一つのまことなる教会を打ち建てようと献身していました。


彼らはキリスト信者となるべくただ一つのまことなる道、聖書を読むただ一つのまことなる読み方、ただ一つのまことなる教理体系、ただ一つのまことなる実践体系に献身しようとしていました。」


しかしイマージング・チャーチ運動はそうではありません。この運動は、「多元性によって特徴づけられています。」と氏は言います。


そして、歴史的プロテスタンティズムとは対照的に、「それは、クリスチャン・コミュニティーの適切かつ必要な明示として多元性をも肯定しています。」


それゆえ、彼らにとって多元性というのは、「反対されるべきものではなく、むしろ、求められ称賛されるべきものなのです。」


そこから、イマージング運動のコミュニティー・サイト(the Emergent Village Community)の「――オーソドックス、ローマ・カトリック・プロテスタント・ペンテコステ・アナバプテスト――あらゆる形態における教会を尊び、それに仕えていく」という標語も生み出されていったのです。




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著書の中で、フランケ氏は、ポストモダニズムおよびその真理理解についての見事な論評を書いておられます。


また、彼は往々にしてクリスチャンの犯しやすい「軽率な仕方で真理を語ること」についても踏み込んだ考察をしておられます。そして彼の主題的言説の多くは、力強く有益なものです。


また、私は次に挙げる彼の勧告にも同意しています。


イエス・キリストのロードシップに献身しているキリスト者は、文化的相対主義を黙認すべきではありません。


この文化的相対主義というのは、究極的ないしは超越的真理という概念を破棄するものだからです。


しかし私たちはそれと同時に、次のような真理の概念を受容する誘惑にも抵抗しなければなりません。


つまり、――それらがあたかも批判を受ける対象にはなり得ないかのように――自分自身の観念や、前提や、願いなどから偶像をこしらえてしまうような、そんな種類の真理の概念です。








三位一体の神は、多元主義者?




ここまでは、私も多いに賛同しています。


フランケ氏はまた、白人の西洋福音主義クリスチャンに対しても真実にして預言的な警告を出しています。


曰く、私たち自身の文化的文脈が自分たちの考え方や信条を形作っており、福音よりも自分たちのそういった文化的前提を、「キリスト教メッセージ」だと断じる誘惑に気を付けなければならないと。




問題点




しかしながら、フランケ氏の主張の勢いは、そういった警告の域をはるかに超えるものです。


真理の多元性を主張する過程で、彼は、この多元性を、神の属性そのものの中に根拠づけようと試みているのです。


三位一体の神の社会的理解を強調しつつ、彼は、「多元性というのは、神の中にさえも存在している」と主張しています。


そして次のような説明を加えています。


違いというのは、ミッショナルな愛の交わりの中に生きていた御父・御子・御霊という神のいのちの一部なのです。





もちろん三位一体は実に深遠なものであり、人間の創造や知識を超えるものです。


それにも関わらず、聖書は、三位一体の神の「一致(unity)」を啓示しており、それを決定的なものとなしています。


何世紀にも渡り、忠実なキリスト者たちは、御父・御子・御霊の間の一致についてのこうした聖書の啓示を尊守してきました。


それにもかかわらず、フランケ氏は、「神の命の中にあっては、異なるものの経験であり、それは同じものではないのです」と主張しています。



☆☆


フランケ氏は神がご自身を被造物に啓示されることを認めてはいますが、それと同時に次のような主張もしています。


「神は、有限な性質を帯びた被造的な媒介を通して、ご自身を啓示されることを選んでおられる。」


換言すれば、聖書の中の実際のテクスト(聖句)には、被造的な諸限界が含まれているというのです。


「啓示を担うものとして神がそれらをお用いになるとしても、依然としてそういった諸限界はその場に残り続ける」と氏は言います。


そのため、彼の聖書理解には、福音主義的確信が絶望的に抜け落ちる結果となっています



☆☆


さらに氏は、「聖書は、聖霊が今日の教会を導く上での原則的手段です」と認めつつも、「御霊の語りかけは、聖書記者たちの元々の意図だけに縛られている訳ではありません」と言っています。


そしてポストモダンのテクスト理解およびその解釈法を用いつつ、こう述べています。


聖句を通した御霊の語りかけというのは、どういう意味かといいますと、聖書記者の意図は大切な要素でありつつも、それだけが大事な要素ではないということです。


それは御霊の語りかけの豊満性を表していません。なぜなら、それはいつも、読み手の応答を含むものだからです。




聖書を読むことにおける私たちの目標は――組織的に整備された主張をもち、それらを唯一の妥当な解釈的格子であるとみなしつつ――聖句の真の意味を体系化しようとするような試みではないということです。


そういったアプローチは、絶対主義的な方法や主張をもって神学や解釈学に接する人々の間に特徴的です。


そしてこういった人々は、そういった手順により、唯一のまことにして打倒な聖書教理の概念に辿りつくことができると考えています。


しかしここでの危険は、そういった手順が私たちの聖書読解を妨げ、新しい諸方法で御霊の語りかけを聞くことを困難にし得るという点です。





これは何を意味しているかと言いますと、私たちは実際には、聖書の御言葉に拘束(bound)されてはいないということです。


その代り、教会は御霊により頼みつつ聖書に取り組み、そしって御霊によって共同体が「新しい理解」に導かれるようにしなさい、ということです。


こうして、イマージング教会は、聖書の実際の御言葉や命題的言明に対する説明責任から「自由に」されているのです。


そして共同体は、「聖霊によって、今までとは違うこういう新しい聖書理解に導かれたのです」と言いさえすればよくなるのです。






新しい鍵をもった神学的リベラリズム



もちろん、上記のような主張こそまさに、プロテスタントのリベラル主義者たちが過去2世紀に渡って繰り広げてきた議論に他なりません。


フランケ氏は、そういった従来のリベラル派の主張に、ポストモダンの概念と言葉をつけ加えているわけです。


こうして、――極端な個人主義を帯びつつポストモダン主義によって洗練された――この新しいリベラリズムは、今や、共有されたコンテクストの中で神学的修正論を打ち立てようとしています。


そしてその結果はまた同じです。


そうです、それは聖書的キリスト教の転覆・破壊に他ならないのです。


もちろん、フランク氏をはじめとするイマージング陣営の人々は、こういう批判を聞いて気分を害されることでしょう。


実際、「歴史的キリスト教」やクリスチャンであるために信ずべき「最小限の信仰告白」でさえも、その有用性に疑問を投げかけているフランク氏でさえも、次のようにはおっしゃるでしょう。


「ええ、もちろん、私は真理を信じていますよ。神の存在を信じていますし、イエス・キリストが神の子であることも信じています。また聖霊、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命も信じています。アーメン」と。


しかしながら問題はこれです。


つまり、「真理は多元的なものである」とするフランケ氏の主張が意味するところは、とどのつまり、教会は、さまざまな異なる――そして互いに矛盾さえしている――教義の説明や根幹真理をも受容し、それらを喜受しなさい、ということに他ならないわけです。


もちろん、「どんな神学的システムといえども、文化的限界から自由ではない」というフランケ氏の警告はたしかに的を射たものだと思いますが、彼の提言は、教義的説明責任(doctrinal accountability)に対し、完全にして無条件なる降伏を意味しているのです。


彼は「すべての教義的主張が許容可能であるとは言えない」とは言いつつも、真理と誤謬の間を見分けるための規範としての聖書の権威を軽んじ、弱めています。





おわりに



19世紀、20世紀のプロテスタント自由主義者たちは、時として、傾聴に値する批判を出すこともありました。


にもかかわらず、聖書的真理に対する彼らの破壊行為や、正統信仰よりも異端を受容するというような彼らの姿勢は、結局、こういった神学的リベラル主義者たちを、聖書的キリスト教とは似ても似つかない宗教の支持者としてしまったのです。


そして今や、イマージング・チャーチ・ムーブメントの先導者たちもまた、それと全く同じコースを辿りつつあります。


Manifold Witnessは、興味深い本ではありますが、フランケ氏の提言は、神学的惨事を招くものです。


そしてこの本において、新しいポストモダンの形をとった神学的リベラリズムの姿が私たちの前に、はっきり表されているのです。




ーおわりー





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