015302cフデりんどうの花




はしがき



セオフォロスとも呼ばれているイグナティオスから、いと高き御父の威光とひとり子イエス・キリストにより、憐れみを受けている教会へ。


教会――それは、主のみこころにより愛され光を受けており、私たちの神であるイエス・キリストの愛により、すべてのことをなさんとしています。


[そして、この〕教会はローマ人の住む地域に立っていますが、それは神性と栄誉と至高なる幸いと賛美とあらゆる願いを受けるにふさわしく、そして聖いものであるとみなされるにふさわしく、愛の上に立っています。


また教会は、キリストおよび御父より名づけられており、私もまた、御父の子であるイエス・キリストの御名によってみなさんにごあいさつ申し上げます。


肉においても霊においても、主のすべての掟において一致し、神の恵みに密に満たされ、あらゆる汚れから清められているみなさんへ。私たちの神、イエス・キリストにあって非難するところなき大いなる喜びがありますように。



Kinuko's note:


Εκκλησια.....αξιοθεος, αξιοπρεπης, αξιομακαριστος, αξιεπαινος, αξιοεπιτευκτος, αξιοαγνος



教会のことを描写するのに、ここでイグナティウスが「ἀξιό+~」(=にふさわしい, worthy of)という表現を6回も繰り返していることが、私にはとても印象的でした。


ἀξιό+θεος  神にふさわしい
ἀξιο+πρεπής 栄誉を受けるにふさわしい
ἀξιο+μακάριστος 至高なる幸いにふさわしい
ἀξι(ο)+έπαινος 賛美を受けるにふさわしい
ἀξιο+επίτευκτος あらゆる願いを受けるにふさわしい
ἀξιό+αγνος 聖いとみなされるにふさわしい


イグナティオスの清らかな霊の目には、キリストの血で贖われた輝かしい栄光の教会がはっきりと見えていたのでしょう。

「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ5:27)。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1:23)。







第1章


囚人として、私はあなたがたに会いたい




神への祈りを通し、ついに念願であった、あなたがたとの対面が実現しただけでなく、私の求めていた以上のことさえ与えられました。


キリスト・イエスの囚人として、私はあなたがたにごあいさつ申し上げたいのです。――もし本当に最後まで[信仰を]全うするに値するというのが私に対する神のみこころであるなら。


そして、もし本当に妨げられることなく最後までわが行程を全うする恵みを得ることができるなら、出だしはよく整えられているのです。


しかし私はあなたがたの愛を恐れています。それがかえって私に害を及ぼすのではないかと思って。


というのも、あなたがたにとってご自分の望むところを成し遂げるのはたやすいことでしょうが――もしもあなたがたが私の命を救おうとするのなら――、私にとって、神に達することはかえって困難になってしまうからです。



Kinuko's note:


δεδεμενος..εν Χριστω Ιησου (キリスト・イエスにあって獄につながれています。)


現代ギリシャ語訳では、ως δέσμιος για τον Χριστό Ιησού (キリスト・イエスのための囚人として)と翻訳されています。


パウロが獄中書簡の中で、繰り返し、自分のことを「キリストの囚人(δέσμιος Χριστοῦ Ἱησοῦ)」と呼んでいたことを思い出しました(ピレ1、エペ3:1、4:1、Ⅱテモ1:8等)。


イグナティオスもまた、パウロと同じように、重い足枷をはめられ、非常に不自由な姿勢でこの手紙を書いていたのかもしれません。


「私は鎖につながれて、福音のための大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」(エペソ6:20)。


「私が牢につながれていることを覚えてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように」(コロ4:18)。


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イグナティオスのローマ人への手紙 【AD2世紀前半、初代教会】 第2章―殉教の道から私を「救い出そう」としないでほしい

イグナティオスのローマ人への手紙 【AD2世紀前半、初代教会】 INTRO

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