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James B. De Young, 'Burning Down the Shack' Exposes Greatest Deception to Blindside the Church in Last 200 Yearsより一部引用




。。ジョン・バンヤンの『天路歴程』が世に出されて330年ほど経ちますが、現在、メディアは、神のご性質についてどのような描き方をしているのでしょうか。


現代映画は、神を人間の姿・形として描き出し、そのようにして主のご人格を貶めています。


またキリスト教音楽界は偶像礼拝的な要素を含むようになり、偽神学者たちは、イエスさまを、「誰の気分も損なわないタイプの」ソーシャル・ワーカーに仕立て上げようとしています。


メディアというのは、私たちの社会にあって、最大の善のために用いられる場合もあれば、その逆に、最大の悪の普及のために用いられる潜在性を持っているといえましょう。


☆☆


現代フィクションもまた、神のご性質の何たるかについて人々に教え込む道具として用いられています。


あるクリスチャン作家たちは、神についての非正統的な像をこの世に打ち出していますが、それはなぜかと言いますと、彼らが主なる神を、「審判の神」として認めることを拒絶しているからです


イマージング運動のブライアン・マクラーレン氏は、その線で三部作を書いておられますし、ウィリアム・P・ヤング氏の『神の小屋』もまた、多大な影響をもたらしています。


マクラーレン氏もヤング氏も共に、小説を、自らの「神学表現」として用いています。つまり自らの信じる教義を読者に教えることが、これらのフィクションの目的なのです。


ですから、これらの小説のジャンルは、「神学的フィクション」ということになると思います。そしてその意味では、バンヤンの『天路歴程』もまた、この類型に入ると言わなければならないでしょう。


しかしながら、ヤング氏の小説の中で奨励されている神学は、バンヤンのそれとは対照的に、かなり問題を含んでおり、正統的な立場を逸脱しています。




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『天路歴程』(1678年)



。。主人公のマックは甚大な喪失に苦しんできました。娘が殺されたのです。しかしながら、著者は、マック自らが――悔い改めと告白を通して――変えられるというよりは、むしろ、彼の神理解を変化させることによって、マックを、こういった葛藤や絶望や反抗から救い出そうとしています。


そしてこの小説の問題点はまさにここにあるのです。


福音主義教会(福音派/カリスマ・ペンテコステ派)は、神のご性質において――聖さと愛の間には等しくバランスが保たれている――という理解を保持していますが、ヤング氏は、その神理解から離れておられます。


そしてユニバーサリスト的(万人救済論的)な神理解をするに至っておられます。


ユニバーサリスト的神理解の中では、愛こそが至上のものであり、(神の)裁きや聖潔といったものは、神の愛と対立するものと考えられています。


またバンヤンとは裏腹に、ヤング氏は、未来において神の審判があること、そして神が罪を罰せられるということを否認しておられます。


キリスト教小説や映画といった分野は、ここ200年余りに渡り、プロテスタント教会の弱点を打つにあたっての最大の惑わしとなってきている――これは決して誇張ではないでしょう。




―引用おわり―




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