関東にお住まいのエレミヤ兄が『神の小屋』の詳細なレビューを送ってくださいました。


この小説に共感を覚えていらっしゃる方々に深い理解を示しつつも、さまざまな角度からウィリアム・ヤング氏のこの著作について、有益な指摘をしておられます。この場をかりて、エレミヤ兄にお礼申し上げます。




ブックレビュー




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『神の小屋』(ウィリアム・ポール・ヤング著 結城絵美子訳 いのちのことば社発行)を図書館で借りて、読んでみました。


全米で400万部、世界39ヶ国で1800万部のベストセラー。さらに映画化され、俳優石田純一さんの娘であるタレントのすみれさんが、サラユー(聖霊)役でハリウッドデビューするそうです。


映画は、今年2016年11月18日にアメリカで公開されるとの事。


いのちのことば社からの発売で、日本でも有名な牧師さんが推薦したりしています。その一方で、本書に対する批判的な声も聞いていました。


いづれにしても、1800万部も売れているということは、世界のキリスト教会に多大な影響を与えていることは、確かであり、私も祈りつつこの本を読みました。以下感想を述べます。




なぜこれほど売れているのか




はじめに、どうしても気になるのは、何故この本がこんなにも売れているのかということです。


人はだれもが、その度合いは様々でしょうが、この主人公マックのように、「大いなる悲嘆」があります。キリスト者であっても人生がすべて順調ではありません。


悩み・苦しみ・悲しみ・病気・死・人間関係のもつれ・艱難・迫害・貧困・自然災害・事故・・・・「神様どうしてですか」と心の底から呻くような叫びをあげたくなる出来事に遭遇することがあります。



ところが、クリスチャンが教会で、これらの答えを得ていないのではないでしょうか。さらに最悪なのは、「それはあなたの信仰が足りない」とか「あなたの罪のせいです」と言われ、もっと苦しんでいる人がいます。


そういう方々が、この本で、癒された、救われた、解放された、希望を見出した、と感じるのだと思います。


この本に登場する神は、あなたの名前を呼び、愛していると何度も言い、何度も抱きしめ、キスをし、微笑み、ウインクをし、共に食事をし、作業をし、散歩し、星空を見あげ、自然の美しさを楽しみ、一緒に笑い、しっかりと向き合って会話をしてくれます。


パパ(父なる神は、黒人女性として登場)が音楽を聴いたり、歌ったり、食事をつくったり、イエスはジーンズ姿で登場し、食材のはいったボウルをひっくり返したり、サラユー(聖霊 アジア系女性)はよい香りを放ち、涙をあつめてくれる。とても神様を身近に感じることができるのでしょう。


神様がとてもリアルな存在として、視覚・嗅覚・聴覚・触覚・味覚にせまります。


そして、神様との交わり、会話を通じて、マックの心の深い部分の、怒り・苦しみ・憎しみ・傷が、徐々に癒され、変えられていく姿に、読む人も励まされ、読者の抱える問題を解決にむかわせてくれる力があるのだと思います。


ソフィアとの対面で神を有罪だとしたマックが、神を信頼するものへと変えられ、祝祭において確執のあった父と和解し、愛娘ミッシーを殺した犯人を赦す・・・そんなストーリーに涙する人も多いのではないでしょうか。


もうひとつ、この本が売れている理由は、特にアメリカで、主人公マックと同じように、自分の子供が誘拐され行方不明となり、苦しんでおられる方が非常に多いという事です。


「残念ながら、ミッシーが行方不明になったあの事件のようなことは、最近ではめずらしいことではない」(P29)と本書でも述べています。


サタニストが悪魔礼拝で子供を捧げるために誘拐している、あるいはマインドコントロールをして、彼らの目的にかなう人材を養成するために組織だって誘拐をしている。そのようなことが、「多重人格はこうして作られる」(徳間書店)という本に書かれていました。このような被害者が、この「神の小屋」に救いを求めるのではないでしょうか。




問題点




しかしながら、この本は、様々な問題があると思いました。


神様を第一とするのではなく、神様をすべてとせよ、神様を信頼すること、神様との関係を大切にすることを薦めています。これは正しいでしょう。


けれども本書に描かれている神様が、聖書が教えている神様と同じかというとそうではありません。そこが問題です。


また本書には、読者を、聖書のみことばから遠ざけようとしている意図が感じられます。


「父は酔いが醒めるたびに酒瓶を置いてマックをベルトで打ちすえ、聖書のことばを投げつけた。」(P7)


「神学校では、現代においては神が人間とそのような直接的なコミュニケーションをとることはなく、むしろ人間はただ、適切な注釈とともに聖書を読んで、それに聞き従うことが求められていると教えられた。神のことばは聖書の中にのみ閉じ込められ、その聖書もしかるべき権威と知識によって吟味され、解釈されなければならない。」(P86)


「神学校で習ったことなどまるで役に立たない。」(P121)




と、このようにマックに言わせ、聖書・神学を否定的にとらえようとしています。


「聖書をほんの二節読んだところで、だれかが彼の手から聖書を取り上げ、部屋の電気を消し、頬にキスした。」(P157)




これは、小屋に来て、一日目の夜、マックが部屋にもどったところの記述です。まるで、聖書を読んでも仕方がないと主張している感じです。


「神の小屋」は小説(空想話)であって、その神学は論じるべきではないと考える方もいらっしゃるかもしれませんが、クリスチャンであれば、聖書のみことばをもって、吟味・識別するのは当然だと思います。


気になった箇所をいくつか挙げてみたいと思います。



十字架について


「彼は十字架を通して、自分自身を完全にあたしの手にゆだねる道を見出したんだよ。ああ、あれは最高の瞬間だったね。」(P130)


「ああ、大したことじゃないよ。ただ、世界が造られる前から愛がそうしようと決めていたことのすべてさ。」(P276)


「イエスは十字架の上で何を成し遂げたのかって聞いたね。いいかい。よくお聞き。彼の死とよみがえりを通して、あたしは今、世界と完全に和解することができたのさ。」(P277)


「息子よ、私はおまえを辱めようとしているのではない。おまえに恥や罪悪感や非難を与えるつもりはないんだよ。そんなものは、完全な義のためには何の役にもたたないからね。だからこそイエスはそういうものを十字架に釘づけにしたんだ。」(P321)




イエス様の癒し


「人間としてのイエスの中には、誰かを癒す力はなかった。」(P135)



赦し


「マック、私は神だ。何も忘れたりはしないよ。それにすべてを知っている。だから、私にとって赦すとは、自分に敢えて制限をかけることなのさ、息子よ。」(P322)


「イエスにおいて、私はすべての人間を赦した。」(P323)







「あたしは罪のために人間を罰する必要はないのさ。罪はそれ自体が罰になる。・・・あたしの喜びは、罪に蝕まれた人を癒すことなんだよ。」(P163)




仕える神


「仕える神、か」「うん、これこそ本当に神だ。-僕に仕えてくださる方―」(P339)




男性と女性


「僕たちは男性と女性を、異なる機能を持つ同等のパートナーとして造った。対等に向かい合い、それぞれに個性と違いがあり、性差があり、互いに補い合う関係で、それぞれが個別にサラユーから力を与えられる存在として造ったんだよ。」(P207)


「地球は女性に治められたほうがもっと穏やかで優しい場所だったろうね。」(P206)




三位一体


「私たちの間には最終権限というような概念はないの。あるのは一致だけ。私たちの関係は輪のようなもので指揮系統とか・・・・ないのよ。・・・私たちの間ではヒエラルキーなんて意味をなさないわ。」(P167)



夢・神話


「夢っていうのはほら、時々とても大切な役割を果たすからね。心の窓を開いて、中の悪い空気を外に出してくれたりするのさ。」(P161)


「栄光を伝える話というものは、人が神話やおとぎ話だとしか思っていないところに隠されていることもよくあるのよ。」(P184)




宗教・政治・経済・その他


「僕は宗教があまり好きじゃないし、政治も経済もすきではないね。・・・その三つは人間が作り出した三位一体で、地球を荒廃させ、僕の大切な人たちを欺く・・・」(P256)


「聖書はルールを守るようになんて教えてないわよ」(P284)


「人間は、生き生きとして恵みに満ちている動詞を、いのちのない名詞やルールという悪臭を放つ原則に変えてしまう・・・」(P294)


「聖書には責任ということばがないのよ。」(P295)


「イエスにおいて、あなたは律法から解放されているんだから、すべてのことは合法よ。」(P292)




擬人化


本書では、神様を擬人化して登場させている。これ事態、私は好まないが、父なる神様を女性として登場させる(最後は男性になる)のは非常に違和感を覚えます。


またソフィアなる女性(パパの知恵を人格化した存在P243)を登場させている。おそらくは箴言2章の「知恵」を擬人化したと思われます。





おわりに



最後にもう一つ警鐘を鳴らします。


この本で恵まれた、癒された、救われたと感じたキリスト者に、襲い掛かる危険があります。それは、既存の教会に対する不満の思いに駆り立てられる罠です。


「マックは「神」や「宗教」にうんざりしていた。」(P87)


「うんざりするほどたくさんの奉仕活動でもなく、あれもこれもときりがないほどの要求でもなく、知りもしない人々の後頭部を眺めながら延々と座っているいつ終わるともしれない集会でもない。」(P254)


「宗教的な組織っていうのは人をのみ込んでしまうことがある。」(P255)


「あなたは教会のことをあなたの愛する女性にたとえたけど、僕はそういう教会に出会ったことはないと断言できる。」(P253)




本書は、既存のキリストの教会の制度や権威について否定的であり、既存の教会に対する不満を生み出す悪い種のように感じました。


この本の信奉者があらわれ、教会を荒らさないように祈ります。私が感じたことが、いらぬ心配であればと願っています。


本書を読んだキリスト者が、「単に小説としておもしろかった。」と思うのではなく、この小説のどこが問題なのかを、見分けることが出来るようにと祈ります。


それにしても何故いのちのことば社から、このような本が発売されたのでしょうか。いのちのことば社の働きのためにも、祈りたいと思います。




―レビューおわり―





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