D 古代および現代史に関する誤った言及



対等主義関係の著作の中で、何度も何度もくりかえし、史実に基づかない古代世界に関する誤った主張がなされています。


例を挙げますと、「当時の古代世界においては、女性たちは、教会指導者として奉仕するに十分な教育を受けることができていなかった」という主張がよくなされます(Evangelical Feminism and Biblical Truth,8章2項参照)。


しかしながら、古代世界の実証研究が進むにつれ、ますますこういった主張の信ぴょう性のなさが明らかになってきています。


また、対等主義の著作・論文の中では、聖書のどの聖句からも立証されていない(ないしは、確立された諸事実)によっても裏付けされていないことが事実であるかのように主張されています。


例を挙げますと、「当時のエペソにおいて、女性たちは偽りの教理を教えていた。」(8章1項)、「当時のコリントにおいて、礼拝時に、女性たちは集会をかき乱していた。」(7章7項)といった主張です。


実に、こういった主張が、あちこちで再三にわたり繰り返されているため、次第に人々はそれが事実であるかのように思い込み始めます。


そしてこう考えるのです。「きっと、学者さんたちがこの点に関して学的裏付けをしてくれているに違いない。」


しかし実際はどうかと申しますと、そのような主張をバックアップする堅い証拠は未だどこにも見いだされていないのです。そして人々はそのことを知らずにいるのです。




E 聖書の権威を拒絶し、リベラリズムへ向かわせる解釈メソッド



ある人々はこのように言います。「でもこの論争は、とどのつまり、聖書解釈の違いに過ぎないんですよ。」


そしてこういった人々は、どちらの見解も教会内で許容されるべきだと結論づけています。(もちろん、対等主義者たちのある主張に関しては、私も、それらを単なる解釈の違いだと認めておりますし、本書の中でもその点に言及しています。)


しかしながら対等主義者たちによるもう一つ別の種類の解釈が存在することもまた事実であり、この種の解釈は、非常に厄介です。


というのも、彼らは、信者の人生の中におけるみことばの権威についての前提の部分で、私たちと同じ土台に立っていないからです


本書の13章でも詳説しましたが、こういった対等主義者たちの主張は、暗にあるいは明瞭に、聖書の権威を否定するものです。


例えば、「旧約聖書のヘブライ語の語彙の意味は、私たちにとって権威を持つものではない」という主張がなされています(3章5項)。


その他にも、「創世記1-2章は、歴史的に正確ではない」(3章7項)、


「男性リーダーシップに関する新約の倫理は、まだまだ改善の余地がある」(6章5項)、


「1コリント14:34-35の箇所は、聖書の一部として取り扱うべきではない」(7章5項)、


「1テモテ2章において使徒パウロが言ったことは間違いだった」(8章14項)等など。


またこのカテゴリーに適合するもう一つの主張は、次のようなものです。



パウロや新約記者たちは、教会における完全な形での女性リーダーシップに向け、軌道(trajectory)を走っていた。しかし、彼らは新約聖書が完成する時点においては、まだその最終目標に到達することができなかった。

それゆえ、私たちは使徒たちの教えを越え、彼らが進んでいた方向に動いていかねばならない。(9章4項 参照)




こういった軌道解釈(trajectory hermeneutic)と類似の例として挙げられるのが、ケビン・ギルス(Kevin Giles)の見解です。


ギルスは、「聖句を引用していても、教理的な問題には解決がもたらされない。だから、そうする代わりに教会が歴史的に保持してきた見解に依って決定を下さねばならない」


(少なくても、ギルス氏が「これこれの点において教会は正しい教理を保持していた」と考える事例において)と考えています。これに関する検証は10章2項をお読みください。


また聖書の権威を否定する事例としてこれとは別の次のような説もあります。


これは「贖罪的な運動としての解釈法("redemptive movement hermeneutic")」と言われるものです。


この解釈によれば、「恭順」を勧告する新約聖書の聖句および教会における男性リーダーシップに関する聖句は、文化的に相対的なもの(culturally relative)であるということです。


あるいは、「この問題に関しての個々人の決断はすべて、自分がどの聖句に力点を置くかにかかっている」といった主張もなされています(9章5項)。


その他の主張を列挙します。


「この問題に関して聖書が教えていることを把握することは不可能」(9章9項)。


「男性の牧師や長老の権威の下になされるのなら、女性も教えたり、成人男性の上に権威を持つことができる」(9章12項)。


「(たしかに女性スタッフたちは成人男性を前に説教したりしていますが)私たちはあくまでパラチャーチ(学生宣教団体等)であり、『教会ではない』ので、その点に関しては、私たちは新約聖書の掟に従う必要はないのです」(9章13項)。



スポンサーサイト

今日のジェンダー論争に関しての個人的所感(by Wayne Grudem):3)なぜ対等主義が前進しているのか?【後篇】

今日のジェンダー論争に関しての個人的所感(by Wayne Grudem):3)なぜ対等主義が前進しているのか?【前篇】

comment iconコメント ( -0 )

コメントの投稿






上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。