F.自分たちの権威としての聖書を拒み、この問題を、経験や個人的傾向をベースに判断している。




こういった対等主義者の人々は、みことばそのものよりも、個人の経験に、より高い権威を据えています。そして次のように言っています。



神様が明らかにこの女性たちのミニストリーを祝福してくださっており、私たちはそれに反対することができないと思います。


ですから、私たちはこの問題に関し、聖書が何と言っているかという不明瞭な議論で時間を無駄にすべきではないと思います。(11章4項参照)。




もし彼女が真実に、神様から『牧師になりなさい』という召命を受けたのなら、その女性のミニストリーの正当性を私たちがどうこう言うことはできないと思います。(11章5項)。




今日、多くの預言的声が示すところによれば、女性たちもまた、(成人男性を含めた)男女に聖書を教え、牧師として奉仕することが許可されるべきなのです。(しかし、ここでもまた、この命題に関し、聖書自体は何と言っているかということについての彼らの言及はありません。)(11章6項)。




私たちは現在、――聖書の中に見いだされる古い諸基準がもはや適用されないという――歴史上、例をみないユニークな時代に生きているのです。(11章7項)







G 信徒たちに偏った情報しか提供しない




私はこれまで何度となく、ある一人の牧師が、いかにして自教会を対等主義路線に持っていくかという一連の行動のパターンを目の当たりにしてきました。


残念ながら、こういった牧師たちの中には、この問題にかんする適切な情報を公平に信者に知らせることをせず、相補主義側の立場を言い表すフェアな機会を提供することを拒む人々もいました。


そして大抵の場合、こういった牧師は、次のような手順を踏んで、教会を対等主義化させます。



)対等主義の著作を数冊読み、これが正しいと確信する。


)支持者集めを始め、長老会や、役員会の大半を、対等主義側につかせる。


)対等主義の見解に沿った説教をシリーズで行なう。


)実際に、教会の女性たちに、(成人男性をも含めた会衆の前での)講壇説教をさせる。





そんな中、もしも誰かがこの牧師のやっていることに異議を唱えた場合、牧師および仲間の指導者たちは、その信徒を「分派を起こす者」だとみなし、「彼/彼女は、教会のリーダーシップに誤った形で逆らっているのです」と言います。


またある教会メンバーが、「相補主義側の立場を表明する機会をもください」と頼みにいくと、「でも、その立場については皆がすでに言っているので、あえてまた聞く必要はないでしょう」と言われます。


しかしながら、実際、多くの信徒たちは、(対等主義側との有益な対話をも含めた)相補主義の見解について、未だかつて、一度もまともな説明を聞いたことがないというのが現状です


そのため、そういった「直観的」相補主義クリスチャン("instinctive complementarians":つまり、あれやこれや著作集や神学書などを読まなくても、聖書を素直に読み、そして、誰に教えられなくても、相補主義のあり方が正しいということを心で知っているクリスチャンのこと。)は、


アカデミックな世界で30数年以上に渡り議論を重ねてきた対等主義の神学者たちからの鋭い問いに、(学的に説得力のある)答えをすることができず苦しみます。


また自教会の牧師の対等主義的アジェンダに対し、聖句を引用しつつ疑問を投げかけても、牧師は、対等主義の神学者たちの議論手法でもって、「A教授やB教授の見解によれば、あなたのそういった見解は間違っている等、、、」と、その信徒に答えるので、彼/彼女の立場はさらに苦しくなります。



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