その点で使徒パウロは、[臆病な牧師たちと]どんなに違っていたことでしょう!


彼は神の言葉の中で「不人気な」教えのためにしり込みすることなく、反対に果敢に立ち上がりました。


エペソで教会の長老たちに会い、彼らの間で労した3年間の働きを振り返った際も、彼は清い良心をもって次のように言うことができました。


使徒20:26-27

だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。

わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです



「伝えたからです」の「から(for)」という語から分かるのは、ここでパウロが自分がなぜ「だれの血についても、責任がない」のか、その理由を述べているということです。


彼は言います。エペソ教会内のあらゆる失敗に対し、自分は神の前に「責めがない」。なぜなら、私は「ひるむことなく」「神のご計画をすべて(the whole counsel of God)」彼らに伝えたからです、と。


彼は、聖書のある教えが「人々の反感を買うから」という理由で、それを説くことを差し控えるようなことはしませんでした。


そして、そういった教えが「自分に対するバッシング、葛藤、そして衝突を招いてしまう可能性があるから」と言って、教えを説くことを差し控えるようなこともしませんでした。


そうです、パウロは、教えの内容が人気のあるものであろうと、逆に人々の反感を買うようなものであろうと、聖書のあらゆる主題を余すところなく人々に説いたのです。


もしも使徒パウロが今日生きており、こういった諸教会を牧会開拓していたとするなら、彼は、現地の牧会者たちに対し、男女の聖書的役割について、あいまいでお茶を濁すような言い方をするよう勧告するでしょうか。


現在、社会全体で、もっとも論議がなされ、かつ緊急テーマとなっているこのジェンダー問題に関する神のみこころに対し、何も言わず泣き寝入りするようパウロは勧告するでしょうか。


「何も言わなければ物議も醸し出さないし、荒波を立てることもない。。。そうしたら教会内に『平和を保てる』。だから私は黙っていよう。。」


こうしてあなたの「沈黙」により、この論争の決着は、次世代まで引き延ばされることになります。


はたしてパウロはそのような勧告をあなたに出すでしょうか。


「キリストに従うにあたり、私たち信者は割礼を受ける必要がない」とパウロが説教し始めたことを引き金に、ものすごい迫害が起こりました。


ユダヤ人の敵対者たちはパウロを町から町へと追跡し、ある時には彼を石打ちにまでしました。(使徒14:19-23)。


しかしパウロは一歩もひるまず、救いの福音の使信に関し、妥協しませんでした。


そうです、救いは、キリストを信じる信仰「のみ」によるものであって、「信仰と割礼」によるものではないと宣言したのです。


そして後にパウロは、自分が迫害の憂き目にあった諸教会に対し手紙を送った際にも、福音の純粋性を守るよう強調し、次のように書きました。


ガラテヤ1:10

こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。


あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。



教会指導者たちも、そして他のすべての信者たちも、今一人一人が、この問いの前に静まることが大切ではないかと思います。



木犀(もくせい)

対等主義前進を支える同盟者――② 臆病な牧師たち 【前篇】