「2世紀および3世紀の信者たちは、どの戦略家も避けようとする戦法――両面作戦を、せねばならなかった。

ローマ帝国が滅ぼしてしまおうとするのに当面して、自己の存立のために戦っていた一方、それと同時に、教会は、教会内での教義の純潔保持のためにも戦っていた。」


―E・ケァンズ 『基督教全史』、p134




昨日のコメント欄での兄弟姉妹との有益な対話を通し、私は初代教会のクリスチャンたちにとった「両面作戦」について思いを馳せざるをえませんでした。


聖書の言葉を、神の言葉と真摯に受け取らないクリスチャンリベラリズムは、真理と神の言葉を探し求める人々にとって、非常に大きな躓きや苦しみをもたらすものです。


断言は出来ないのですが、イエスを預言者として敬う熱心なイスラムの人々にとっても、こうしたリベラリズムは侮辱的に感じられるのではないかと推察します。


キリスト教界、特にプロテスタントでの自由主義神学を信奉する教会の多さはおそらく大きな躓きとなっているでしょう。






十字架の敵



クリスチャンリベラリズムは、いのちの木を内側から腐食させ、この体系を受け入れる人々の信仰をじわじわと、しかし確実な死と破壊へ追いやる、キリスト教最大の脅威の一つであり、「十字架の敵」(ピリピ3:18)だと思います。


プロテスタント自由主義神学と闘い続けたグレシャム・メイチェン氏は、Christianity AND liberalismと――、両者を互いに親和性のない「異なる別箇のもの」として区別していましたが、それは真だと思います。





世俗精神の形態について




さて、その内側の脅威(クリスチャンリベラリズム)ですが、それはこの世の霊やイデオロギーの形をとってキリスト教会内に侵入してくると思います。


しかしここで留意しなければならないのは、そういった世俗精神(この世の霊:the spirit of the world)は、常に同じform(形態、μορφη)をとるとは限らない、ということではないかと思います。


この点についてフランシス・シェーファーは次のような深い洞察をしています。



キリスト者は、この世の精神(霊)に対し、抵抗し続けなければならない。


しかしその際、留意しなければならないのは、世俗精神は、必ずしも常に同じ形態(form)をとるとは限らない、という点である。


だから、クリスチャンは、各時代それぞれの世俗精神が帯びているその形態――、これに抵抗しなければならないのである。


もしもそうしないならば、私たちは何をしたところで、所詮、世俗精神に抗していることにはならないのだ。それは特に私たちの生きるこの世代に当てはまるだろう。


なぜなら、われわれに敵対している諸勢力は、いまや総力体制でこちらに向かってきているからである。


-Francis Schaeffer, The God Who Is There




それでは私たちの生きるこの世代において、世俗精神はいったいどのような形態を帯びて、「今や総力体制で」こちらに進撃しているのでしょうか。


私たちの教会を内側から腐食させようとしている真の脅威はどこにあるのでしょうか。





漏穴はどこにあるのか?




現在、リベラリズム浸食をもたらしている「漏穴」は複数あると思いますが、その中の一つが「福音主義フェミニズム」であることは、もはや疑うことのできない事実であると思います。


というのも、彼らの論議は、かつてのold liberalsの解釈のそれとほぼ同じだからです註1


註1.この点についての詳細研究は、Wayne Grudem, Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism?をご参照ください。





またその中でも特に、ケファレー(κεφαλη、かしら)、authenteo(αυθεντεω、権威を持つ)をめぐる論争等は、現在、大砲の飛び交う激戦地であり、これらの聖書的真理は、私たちが死守しなければならない霊の要塞だと思います。


ここが破られると、そこに関連するさまざまなものが総崩れになり、今後、取り返しのつかない惨事がキリスト教会や家庭にもたらされると予想されます。



聖書の真理を教えるための神学研究は、聖書と対立する神学思想と学問的に戦うという姿勢が不可欠であります。


神の言葉の前に中立はあり得ない


それに従うか、逆らうかどちらかであります。


したがって、その聖書を研究する神学もまた、原理的には聖書的か非聖書的かいずれかであります。


より聖書的たらんと努める歴史的改革派神学の研究は、聖書への忠誠から非聖書的神学諸思想に対して敢然と立ち向かい、それらに対する“論争的な”(ポレミックな)神学でなければなりません。


神戸改革派神学校、教育方針(2)より一部抜粋





「神の言葉の前に中立はあり得ない。」


そして神の言葉の前には、――日本の精神風土に満ち満ちる「事なかれ主義」――これもあり得ないと信じます。








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リベラリズムの平穏と、真理を求める相克

自由主義神学にはあえて多くを追求しないという姿勢を取る事で平穏を保つという方法論がしばしば見られます。原理主義・根本主義の持つ非寛容さへの嫌悪や否定、包括主義の肯定・・こうしたあり方には歴史的な理由、キリスト教会による御言葉を盾にした暴力への反発や怒りが背景にあるのだろうとも推察します。この点に関しては聖書主義クリスチャンも目をそらすべきではないと思います。

一方でリベラル神学は「この世でキリスト者としてどう生きるか」という点であまり明確な答えを出せていないような印象も受けます。少なからずのリベラル教会が「戦争をなくす」「差別をなくす」「社会をよくする」といったこの世の改善についての発信はされていますが、聖書を神様の言葉と文字通り捉えることなしに「神様が私に望まれている人生を、主にあって生きる事とはどのような事か。」という点を深く問う事は難しいのではないかとも思います。

真理を求める相克は、外からの影響に傾き中からの攻撃に揺らぐ自分自身との闘いだとも思います。一番問われるのは自分と神様との関係です。その意味で全ての信仰者たちはbattle fieldの中に置かれていると感じます。



名前: Sanae.T [Edit] 2016-11-09 09:31

日本の精神風土と聖書の真理(その1)

さなえさん、おはようございます。示唆に富んだコメントありがとうございます。


私は、(自分を含めた)日本の精神風土を内に宿す人々には、リベラリズムや汎神論との闘いにおいて、西洋の人々以上に乗り越えなければならない壁が大きいように感じるときがあります。

前にも書いたことがありますが、「神仏習合」という――聖書の真理の光の下では到底あり得ない現象――が、わたしたちの文化史をとおして、人々のものの考え方に浸透していったという事実一つをとっても、その「障壁」の高さを痛感します。


【神仏習合(しんぶつしゅうごう)】(英語訳 "syncretism of kami and buddhas")

日本固有の神の信仰と、外来の仏教信仰を融合・調和するために唱えられた教説。

奈良時代、神社に付属して神宮寺が建てられ、平安時代以降、本地垂迹説や、その他の反本地垂迹説などが起こり、明治政府の神仏分離政策まで、人々の間に広く浸透した


この「カミと仏陀のシンクレティズム(混合主義)」について、英語では次のようなもっとストレートで、グロテスクな説明がしてあります。


When Buddhism was introduced through China in the Asuka period (6th century), rather than discarding the old belief system, the Japanese tried to reconcile the two, assuming both were true.


二つの本来対立し、折り合うことのできない二つの思想が、対峙(confront)することなく、「融合・調和」の名のもとに、妥協し、「assuming both were true(そのどちらも真理なんだと思い込む)」として、なんとなく共存していく。。。

名前: Kinuko [Edit] 2016-11-09 17:20

日本の精神風土と聖書の真理(その2)


政治思想学者の丸山眞男氏は、こういった日本独自の精神風土を分析し、次のような鋭い指摘をしておられます。



。。。なぜなら、思想と思想との間に、本当の対話なり対決が行われないような「伝統」の変革なしには、

およそ思想の伝統化はのぞむべくもないからである。


思想が、「対決」と「蓄積」の上に歴史的に構造化されないという「伝統」を、

もっとも端的に、むしろ戯画的にあらわしているのは、日本の論争史であろう。


ある時代に、はなばなしく行なわれた論争が、共有財産となって、

次の時代に受け継がれてゆくということはきわめて稀である。


。。。思想的論争には、むろん本来絶対的な結末はないけれども、

日本の論争の多くは、これだけの問題は解明もしくは整理され、

これから先の問題が残されているというけじめがいっこうにはっきりしないままに

立ち消えになってゆく。


そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まると、

前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。



また多少とも文化や世界観の本質に関係するようなテーマなどは、

問題の普遍性が高いにもかかわらず、

ヨーロッパでとりあげられ究明されてきた思想的背景を

――あれほど他方ではヨーロッパの作品が流入しながら――

ほとんどまったく度外視して論争が行われることさえ少なくないから、

「思惟の経済」の点でもはなはだ無駄なことが少なくない。


~丸山眞男『日本の思想』より一部抜粋



それから、森有正という思想家も類似の指摘をしています。



「日本文化の在り方をふりかえるならば、そこに体験的要素がきわめて強く、外国から入ってきたものを、その経験の根柢まで掘り下げて思索することをせず、、、、」

森有正 『生きることと考えること』、p96



「外国から入ってきたものを、その経験の根柢まで掘り下げて思索することをせず。」


たとえば、現行のジェンダー論争にしても、聖書の光に照らし、この問題を根柢まで掘り下げて思索し、「思想」と「思想」の間に真摯な対話と対決があるなら、

それは長期的なスパンで考えた場合、キリストのからだにとって、とても実りある「真理探究の軌跡」として、

私たちは21世紀前半に自分たちが全身全霊で闘い、考え、祈り、その問題に向き合った――

――その生々しい歩みの記録を、後代の信仰者たちに贈ることができるのではないかと思います。

名前: Kinuko [Edit] 2016-11-09 17:31

望むか望まないか

相対的真理というあり方の持つ鷹揚な寛容さと、真理を追い求める相克。この二つのどちらを選ぶかと問われた時に、日本社会は歴史的に前者を選び続け、それを良き選択であると見なして来たように思います。「歴史上宗派や教義の僅かな差異を巡って何度も殺し合ってきた」「自分たちを絶対の正義と見なし、異なるあり方を否定する」という理由で、一神教(特にキリスト教とイスラーム)を否定するような発信は今も数多く見られます。ある欧米の方の書かれた「日本人は賢いからこそキリスト教徒にならなかったし、キリスト教を必要としていないのだ。」というコメントを読んだ事があります。日本人自身にもそうした考えを持たれている方は結構おられるのではないかとも思います。不確実な真理なるものに拘って争いを起こすような愚を選ばなかった賢明さに対する自負とでも言えるものです。

フランシスコ・ザビエルの伝記をかなり前に読んだ事があるのですが、日本にいたザビエルをはじめとする宣教師たちは、大勢の日本人が彼らを質問攻めにし、彼らの語る福音が真理であるのかを本気で見極めようとした事に驚きまた非常に感動したそうです。この本の著者は「日本人はこうした心をどこで失ってしまったのか」と問いかけておられました。江戸時代の長きに渡る禁教と「長いものには巻かれろ」という処世術、幕府の強力な統治による一応の平穏。うろ覚えですがこうしたものが原因ではないかと推察されていたように思います。

多くの日本人クリスチャンの方が、試練を通して神様に出会われているように思えます。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」日本にはこのような証を持たれている方が数多くおられるように思います。真理を追究しようと願う雰囲気が社会自体にあまりなく、一部のクリスチャン家庭を除いて幼少期に福音を耳にする機会もないこの国での、この御言葉の重みを感じます。

名前: Sanae.T [Edit] 2016-11-09 22:52

Dear さなえさん♡

さなえさん、応答ありがとうございます。

「相対的真理というあり方の持つ鷹揚な寛容さと、真理を追い求める相克。この二つのどちらを選ぶかと問われた時に、日本社会は歴史的に前者を選び続け、それを良き選択であると見なして来たように思います。」

「不確実な真理なるものに拘って争いを起こすような愚を選ばなかった賢明さに対する自負とでも言えるものです。」


なるほど、これはかなり的を得たご指摘だと思います。だからこそ、日本にいながらイエスさまに堅く信仰を持っていらっしゃる兄弟姉妹の方はすごいと尊敬します。

真理を追究しようと願う雰囲気が社会自体にあまりなく、一部のクリスチャン家庭を除いて幼少期に福音を耳にする機会もないこの国での、この御言葉の重みを感じます。」

思えば私もこの10年、イスラム教徒とのdaily interactionを通して、知らず知らずのうちにまず自分自身が変えられていったのかもしれないと思います。

例えば、私は三位一体の教理をそれまで深く探求したことはありませんでした。

その必要性も感じていませんでした。しかし彼らが三位一体論をめぐって夜中の3時、4時まで延々と熱論を繰り広げている様子を目の当たりにし、それがどれほど私たち信者にとって死活問題なのかということをはじめて肌で知ったのでした。

「真理感覚」が研ぎ澄まされるといったらいいでしょうか。

それから今月、また少し移動が続き、記事の更新がなかなかできなくなるかもしれませんが、ヘンリー・ガードナーの伝記の続き、また書きますので、楽しみにしていてください!それから他の姉妹のみなさんにもよろしくお伝えください。e-113


追伸)パパスのマッシュルーム帽のことで一人思い出し笑いをしています。たしかにパーカッションを打ち鳴らしながらほんとうに楽しそうに賛美しておられ、インパクト大ですよね。それから私はエレミヤさんにComplemetarian Samuraiだの「θερμος ανηρ(hot man)」だの「グランパ」だの、心おきなく言いたい放題言わせてもらっていますが(笑)、エレミヤさんは実に寛大なお方ですよね!すごくうれしいです。

名前: Kinuko [Edit] 2016-11-10 05:05

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