その1その2からの続きです。





束の間の喜び



カイロに到着したガードナーは、驚くべき速さでアラビア語を習得し、エジプト入国後、一年以内に、すでにアラビア語で聖書を説くことができるほどまでになっていました。


いいえ、それだけではありません。友人たちの悲観的予測を打ち破るかのように、最初の数か月で、イエスさまを信じる現地人が複数起こされたのです。





落胆と失意



しかしながら、その時、彼はまだ中東宣教の本当の難しさを知らなかったのです。


ここの宣教地では一見、真実な「実」にみえて、実は「実」ではない――そういうまがい物が多く、しかもそれを見分けるのは至難の業です。


そういった困難にぶち当たったガードナーは、その思いを次のように日記につづっています。



最近、教会の二人のメンバーが背教していった。。。


そして二人とも公の場でキリスト信仰棄教を宣言し、イスラムに回帰した。


そしていつものように、牧師たちを中傷しつつ、教会を去っていったのだ。


イスカリオテのユダの性格は実際、ほんとうにあり得るのだということが、今、僕に初めて分かった。





また婚約者の女性に対しても次のような手紙を書き送っています。



晴れ渡った空のような青年期がもはや永遠に僕の元から去っていってしまったように感じる。


そして、なにか、より物悲しい人生の段階にさしかかったかのようだ。


ああ未来を向こうにも、そこにもまた同じ失望が広がっているような気がする。


――イスラム教に対峙するというこの報われない労苦の日々、厳しい気候、まだまだ未踏で手つかずの開拓分野、そしてなにより、こういったひどい失望の連続。。。


でも、これが僕の選んだ人生だ。おお、主よ、助けたまえ!


そして僕は君にもここに来て、僕と共にこの人生を共有してほしいと願っている。



Constance E. Padwick, Temple Gairdner of Cairo (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1930), 95





1902年の秋、ガードナーと婚約者マーガレット・ミッシェルは結婚しました。


マーガレットも女性宣教師としてインドに派遣される過程にありましたが、結婚を機に、彼女もカイロに派遣されることになりました。


ガードナーはキーボード奏者で、ヴァイオリン奏者のマーガレットと共に家で賛美コンサートを開きましたが、彼には一つの夢がありました。


それは「いつの日か、この地のキリスト教会で、中東独自のメロディーを奏でた賛美がささげられること」でした。(註1


その当時、そのような考え方を持っていたガードナーは、他の宣教師と比べても一時代先を行っていた感があります。





キリスト教弁証家として




またそれまでの(イスラムに対する)キリスト教弁証のあり方が、どちらかといえば攻撃的でポレミックであったのに対し、


ガードナーが、イスラム教への攻撃よりはむしろ、「彼らがつまずきや疑問を覚えやすいキリスト教の教えや教理に対する説明そのもの」に重点を置いていくアプローチをとったことは注目に値します。


しかしそうではあっても、クリスチャンの福音宣教において、ある種の「対決」は避けられないとして、彼は次のように言っています。



平和的な繊細さはより磨かれなければならない。


しかしここぞという時、この宗教との「対決」は、どうしても避けて通ることはできないと思う。





福音宣教に対し、彼には次のようなモットーがありました。



すべての「議論」や「対話」は、無礼に人を非難するためではなく、むだに比較するためでもなく、まただらだらおしゃべりするためでもなく、あくまでも救霊――このためになされるべきである。





イスラム教徒に対する私たちのメッセージには「歌」の楽譜が必要。


それは論争で音のはずれた楽譜ではなく、むしろ、喜びに満ちた証、そして優しい招きを含んだ音の調べであるべきだ。






助け手の欠乏



ガードナーの宣教人生を通しての最大の悩みは、助け手の欠乏でした。


特に長年の同労者であったダグラス・ソーントンの死後、彼は孤独に耐えながら、多くの仕事――しかも、その多くは直接伝道には関わりのないChurch Missionary Societyのオフィス・ワークであり、それがまた彼には心苦しい点でした――をこなさなければなりませんでした。






キリストのからだの一致を求めて





またガードナーは、宣教地で互いに仲たがいするキリスト教の教団・教派の対立にも心を痛めており、なんとかそこに平和と一致をもたらすよう努めていました。



セクト主義に次ぐセクト主義。。。エスカレートする互いに対する排他精神。


実際、私たちは主の御名によって、互いを破門し合っているではないか!


そしてそんな私たちの様子をイスラム教徒はうんざりした目で見ているのだ!






他の大半の宣教師たちとは違い、ガードナーはコプト教会のクリスチャンたちとも友好な関係を持っていました。


しかしながら、彼はまた一方で、福音伝道に対する情熱をもったコプト教徒の少なさにも心を痛めていました。



ああ、いつの日か、コプト教会内にも宗教改革が起こり、「改革派コプト教会」というのが興されればどんなにいいだろう!


そうすれば、喪失していた教会の最後の楽譜――エヴァンジェリカルな闘志(evangelical militancy)と、普遍性(catholicity)――がついに完結することになると思う。







最大の危機




1914年、ガードナーの牧していた小さな群れにイスラム教徒からの激しい暴動が起こり、彼らは絶体絶命の危機にさらされました。


彼は信者たちを率い、砂漠にある洞窟に入り、そこで群れにみことばをもって勧告し、励ましました。


それは復活祭の時期にも重なっていたため、彼はこの時のことを「黒い聖週」と呼んでいます。



私たちは神の力を祈り求めました。


私たちは一つにまとまっていたため、この時期に背教する者はほんの一人か二人でした、、、


そして今、私たちは再び息を吹き返し、神の御力を信じ、さらに祈っています。


幸いなことに、このような危機に直面していたのは私たちだけではないのです。


この点で、本当に苦難を通らされたのは、1世紀のクリスチャンたちだったと思います。


なぜなら、彼らにはまだ教会史がなかったからです。


その意味で、私たちは、そういった先人たちの証を参考にすることができるわけですから、なんと幸いなことでしょう!







おわりに




ヘンリー・テンプル・ガードナーは、その後も忠実にカイロの地で福音の種を蒔き続け、1928年、数か月肺の病で苦しんだ後、天に召されました。


実用主義的な観点でみれば、彼の長年の労苦はまことに報われない種類のものだったのかも知れません。


しかしながら、イスラム教徒に対する純粋で混じり気のない愛、十字架の愛は、彼の献身の生涯を通し、今も私たちにチャレンジを与えているのではないでしょうか。


――いったい、私やあなたにとって、神の召命、そして聖書の真理は、どのくらい大切なものなのでしょうか。


それは、私たちのすべてを賭けるほどに、それほどに大切なものでしょうか、と。





註1)

《中東独自のメロディーを奏でた賛美の一例》

伝統楽器の調べに合わせ、キリストへの讃歌を詠ったこの信仰詩は内容的にも霊的にもすばらしいと思います。







そして、↓はクリスチャンの吟詠詩ではありませんが、私の祈りは、このような霊の高峰をすでに歴史的に経験的に「知っている」彼ら中東の民が、

――薄っぺらで肉的な流行文化に惑わされることなく――、いよいよまっすぐに高らかに、そして清らかにイエス・キリストへの賛美を歌い上げ、

それによって多くの真摯な求道者たちが、三位一体の神の、言語を絶する美しさ・偉大さ、そして愛に惹きつけられ、救いに導かれることです。







牧会をしていらっしゃる私の友であり、姉であり、かけがえのない仲間である姉妹のみなさんへ

あめんぼ